何でもない
カインは嘘が下手だった。
それはリーリエが魔王城に来てから何度も確認した事実だ。書庫の高い窓から差し込む午後の光が、古い本の背表紙を金色に縁取っている。埃が光の筋の中をゆっくりと漂い、時間が止まったような静けさがあった。紙とインクの匂いが空気に溶け、革の表紙が温められて微かに甘い匂いを放っている。
心配しているのに「心配していない」と言い、見守っているのに「たまたまだ」と言う。嘘をつくたびに、ほんの一瞬、視線が逸れる。
逸れた。今も。
午後の書庫で本を読んでいたリーリエの指先が、また微かに光った。前よりも長く——三秒ほど。白銀の光が爪先から漏れ、頁を照らした。
カインはちょうど茶を届けに来ていた。扉の前で足を止め、リーリエの指先を見た。
そして——瞳が揺れた。
一瞬だった。深紅の瞳が見開かれ、息を呑み、すぐに平静を装う。しかし「すぐに」が遅すぎた。
「……今、何か考えましたね」
リーリエは本から目を上げた。薄い青紫の瞳が、カインの顔をまっすぐに見ている。
「何でもない」
「何でもないときの顔ではありませんでした」
「お前の目がおかしい」
「私の目は正常です。カインさまの嘘が下手なだけです」
カインが黙った。茶のカップを机に置く手が、ほんの僅かに硬い。
リーリエは光の消えた自分の指先を見た。もう痛みはない。眩暈もない。何事もなかったかのように、指は元に戻っている。
「隠し事をしていますね」
「していない」
「嘘が下手ですね、魔王さま」
カインの眉が僅かに動いた。「魔王さま」と呼ばれると、彼は決まって居心地が悪そうな顔をする。自分が魔王と呼ばれることに、未だに慣れていないようだった。
「構いません」
リーリエは本に目を戻した。
「聞く気はありませんから」
「……聞かないのか」
「ええ。どうせ私に関わることでしょう。私の身体がどうなろうと、私にとっては大した問題ではありません」
頁を繰る。文字を追う。平坦な声で、平坦なことを言う。死ぬつもりの人間にとって、身体の異変は些事だ。壊れるなら壊れればいい。
「大した問題ではない、だと」
カインの声が、低くなった。
リーリエは顔を上げなかった。しかしカインの声の温度が変わったことには気づいていた。怒りではない。怒りよりもっと深い何か。
「お前の命は——お前が思っているほど軽くない」
その声に、怒りが滲んでいた。リーリエに向けられたものではない。リーリエを「燃料」にした仕組みそのものに向けられた、静かな激怒。
「軽いですよ。燃料ですから」
「燃料じゃない」
「結界の仕組み上、そう定義されています」
「仕組みの話をしていない」
カインの声が裂けた。鋭く、短く。
「死なせない」
三文字。それだけの言葉が、書庫の空気を震わせた。
リーリエの頁を繰る手が止まった。
顔は上げない。本を見つめたまま、動かない。カインの「死なせない」は何度も聞いた。世界のために聖女を死なせるわけにはいかない——そういう意味だと理解している。理解しているはずだ。
なのに今日の「死なせない」は——少し、響き方が違った。
声の奥に、何かが混じっていた。怒りでも義務感でもない。もっと生々しい、切実な何か。
「……そうですか」
リーリエは静かに答えた。
それ以上、二人の間に言葉はなかった。カインが書庫を出ていき、足音が廊下に消える。リーリエは本を読み続けた——読んでいるふりをした。目は文字を追っているが、内容は頭に入ってこない。
夜。
城が寝静まった頃、カインは再び書庫にいた。
ヴェルナーが扉を開け、静かに入ってきた。カインの机の上に積まれた古い文献を見て、眼鏡の位置を直した。蝋燭の炎がヴェルナーの眼鏡に映り、小さな橙色の光点が二つ揺れている。
「旦那様。お休みになったほうがよろしいのでは」
「時間がない」
「聖女殿の身体のことですか」
カインの手が止まった。ヴェルナーを見る。
「……ああ」
短い沈黙。
「あいつの身体が——結界に蝕まれている」
ヴェルナーが息を呑んだ。眼鏡の奥の目が見開かれる。
「蝕まれている、とは」
「結界を維持する力が、器を壊し始めている。指先の発光は初期症状だ。放っておけば——」
カインの言葉が途切れた。
「放っておけば、どうなるのですか」
「……知りたいか」
「知らなければ対処できません」
カインは文献を閉じ、目を伏せた。
「五百年前にも——同じ症状を見た」
ヴェルナーが立ち尽くした。五百年前。カインがかつて救えなかった人。その人にも同じことが起きた——という意味だ。
「結果は」
「聞くな」
カインの声が震えた——一瞬だけ。すぐに押し殺して、文献を開き直す。
「結果を変える。今度は変える。だから調べている」
ヴェルナーは黙って頷き、棚から文献を取り出した。
「お手伝いします」
「……頼む」
二人で文献を調べる夜が始まった。結界と聖女の身体の関係、接続を弱める方法、あるいは断つ方法。答えは膨大な記録のどこかに眠っている——はずだ。
窓の外で月が傾き始めても、書庫の灯りは消えなかった。蝋燭が何本も代わり、溶けた蝋が燭台の上で白い滝を作っている。カインの目が充血している。ヴェルナーの眼鏡が何度もずれ、何度も直される。二人の男が、一人の少女のために夜を削っている。
リーリエの部屋では、リーリエが眠っていた。
薄い青紫の瞳は閉じられ、銀灰色の髪がベッドに広がっている。胸の聖女の紋章が微かに光り、結界を支え続けている。命を燃やし続けている。
誰かが自分のために眠れない夜を過ごしていることを、リーリエは知らない。
知る気もない——はずだった。
けれど眠りの間際に、カインの「死なせない」が頭をよぎった。あの声の奥にあったもの。切実な、生々しい何か。義務感でも使命感でもなく——もっと個人的な、剥き出しの感情。
リーリエはそれに名前をつけられないまま、瞼が重くなっていった。枕に顔を沈め、シーツの清潔な匂いを吸い込みながら、眠りに落ちた。左胸の紋章が微かに明滅し、結界に命を送り続けている。その光が、暗い部屋の中でリーリエの寝顔を照らしていた。




