庭師の聖女
花に水をやることが、いつの間にか習慣になっていた。
如雨露の中で水が揺れると、ちゃぷちゃぷと小さな音がする。その音が、朝の静かな庭に妙に心地よく響いた。冷たい朝露が草を濡らし、土の匂いが足元から立ち上る。空はまだ薄い灰色をしていて、東の端だけがうっすらと金色に染まっている。鳥が一羽、城壁の上で朝の第一声を上げた。
始まりは数日前のことだった。マリカが「庭の花に水をやってくれませんか? 手が足りなくて」と頼んできた。リーリエは「仕方ありませんね」と答え、如雨露を受け取った。
それだけの話だった。
一日だけ手伝えば済むはずだった。翌日も頼まれたわけではない。けれどリーリエは、翌朝になると自然と庭に足を向けていた。如雨露を取り、花壇の前に立ち、水をやる。
理由は——わからない。聞かれれば「頼まれたから」と答える。誰も聞かなくなったが。
リーリエは花壇の前にしゃがみ、白い花に水を注いだ。小さな花弁が水滴を受けて揺れる。エーデルフラウ。この地方に自生する野花で、丈夫だが手入れを怠ると枯れる。
手つきは丁寧だった。
水の量を加減し、根元に注ぐ。葉にかからないように。花弁に直接水をかけると傷むから。教会で薬草の世話をしていた頃に覚えた手順が、身体に残っていた。
花は何も言わない。感謝もしないし、期待もしない。「聖女として」とも言わない。「世界のために」とも言わない。水をやれば咲き、やらなければ枯れる。それだけの関係。
リーリエにとって——楽な関係だった。人間は要求が多い。笑えと言い、祈れと言い、耐えろと言う。花は何も要求しない。人間は複雑すぎる。感謝され、心配され、笑顔を見せろと言われる。花は何も求めない。
ただ、咲く。
数日後のことだった。
朝の空気が冷たかった。息が白く曇り、草の上に霜が降りている。秋が深まっている証だ。如雨露の水が指先に跳ねて、冷たさに身が縮む。けれど手を止めない。花は毎日水を必要としている。
いつものように庭に出たリーリエは、足を止めた。
花壇の隅で、白い花が一輪、咲いていた。
数日前まで蕾だったもの。リーリエが毎日水をやっていた株。他の花より少し遅れて、ようやく花弁を開いた。朝露に濡れた白い花弁が、朝日を受けて光っている。
リーリエは無表情のまま、その花を見つめた。
長い沈黙。
花は咲いている。リーリエが水をやった花が、咲いている。自分が世話をしたものが、生きている。枯れずに、花を咲かせている。
「……ええ」
マリカの声に、リーリエは我に返った。いつの間にかマリカが隣に立っていた。
「綺麗に咲きましたね」
「……ええ」
短い返事。しかしリーリエの視線は花に留まったままだった。
マリカは何も言い足さなかった。リーリエの横で同じように花を見て、それから静かに去っていった。
リーリエは如雨露を手に、花壇の残りにも水をやった。一株ずつ、丁寧に。
水が土に吸い込まれていく音。地面が黒く濡れ、根元に小さな水たまりができる。水の匂いと土の匂いが混じり合い、朝の冷たい空気の中で生きている匂いがした。太陽の光が水面に反射して、一瞬だけ花弁の裏側が照らされた。
死にたがりの人間が、花を育てている。
矛盾だった。死ぬつもりなら、花の世話などしなくていい。枯れようが咲こうが関係ない。自分がいなくなれば、花は別の誰かが世話をする。あるいは枯れる。どちらでも同じことだ。
なのに——手は止まらなかった。
如雨露を置いて立ち上がると、膝に土が少しついていた。払い落とす手つきは丁寧で、以前なら気にもしなかっただろう汚れを、今は自然と気にしている。
柱の影から、カインがその姿を見ていた。
リーリエが花に水をやっている。しゃがみ込み、白い花に如雨露を傾けている。銀灰色の髪が肩から流れ、朝日に薄紫に光っている。白い指先が花の茎に触れ、傾きを直している。
カインの呼吸が、一瞬止まった。
あの人も——花が好きだった。
五百年前。同じように庭に膝をつき、花の世話をしていた人がいた。金色の髪が風に揺れ、花に語りかけるように微笑んでいた。「この子たちは、ちゃんと水をやれば応えてくれるの」と言っていた。
仕草が重なる。首の傾け方、指の動かし方、花に向ける視線の角度。
「……似ている」
カインが呟いた。声は風に紛れ、誰の耳にも届かなかった。
違う。違う人だ。リーリエはリーリエであり、あの人ではない。わかっている。わかっているのに——心が勝手に重ねてしまう。
カインは目を逸らした。拳を握り、自分に言い聞かせる。
「今はリーリエだ」
今、庭にいるのはリーリエだ。花に水をやっているのはリーリエだ。五百年前の幻影ではない。
視線を戻した。
リーリエが立ち上がっていた。如雨露を置き、花壇を見渡している。咲いた花、まだ蕾の花、これから伸びる茎。
その横顔に、表情はない。笑ってもいないし、悲しんでもいない。ただ——目が、花に向いている。花を見ている。世界の一部を、見ている。
死にたがりの少女が、花を育てている。
その矛盾が——カインの胸を締めつけた。喉の奥に苦い塊がこみ上げ、飲み下すのに一呼吸かかった。
希望と恐怖が同時に押し寄せる。リーリエが世界に根を下ろし始めていること。それが嬉しい。けれど根を下ろした先で、結界がリーリエの命を食い潰すかもしれないこと。それが怖い。
五百年前と同じ光景。五百年前と同じ恐怖。
カインは目を閉じ、深く息を吸った。花壇から漂う甘い匂いが、五百年前の庭の匂いと重なって消えた。柱の影から離れ、廊下を戻った。
書庫に向かう。調べなければならない。リーリエの身体の異変を止める方法を。あの花が枯れる前に。
庭では、リーリエがまだ花を見つめていた。
白い花弁が、風に微かに揺れている。
リーリエは知らない。自分が花に向ける目が、五百年前の誰かと重なっていることを。カインが柱の影で拳を握っていたことを。
ただ——花が咲いた。
自分が水をやった花が。
それだけのことなのに、胸の奥がほんの少し——温かかった。
灼熱とは違う温度。結界の熱が身体を蝕む鈍い痛みではなく、もっと柔らかい——手のひらに陽だまりを乗せたような温度。それは数秒で消えた。消えたけれど、あった。確かに、あった。




