光る指先
それは突然だった。
午後、リーリエは庭を歩いていた。花壇の花に水をやった帰り道。如雨露の水滴が石畳に点々と跡を残している。空は晴れていて、風が穏やかに吹いている。花の香りと土の匂いが混じった空気が、肺を満たしていた。何の変哲もない日だった。
足が止まった。
世界が傾いた——ように感じた。実際には世界は傾いていない。傾いたのはリーリエの身体だった。
眩暈。
視界が回る。庭の花壇が揺れ、空と地面の境界が曖昧になる。リーリエは膝をつき、地面に手をついた。石畳の冷たさが掌に伝わる。
「聖女様!」
マリカの声が遠くから聞こえた。足音が駆け寄ってくる。
「大丈夫です」
リーリエは顔を上げた。視界がまだ揺れている。しかし数秒で収まるだろう。教会にいた頃も、こういうことは時々あった。結界が命を強く吸い上げるとき、身体が一時的に追いつかなくなる。
収まった。視界が安定する。
そのとき——指先に、光が灯った。
右手の指先。爪の先から、淡い白銀の光が漏れている。微かな光。日中でなければ目立たないほどの。
リーリエは自分の手を見つめた。
結界の力だった。胸の紋章から指先に流れ出す聖なる光。通常は身体の内側に留まっているはずのものが、外に漏れている。
「……何ですか、これ」
呟いた。しかし声に動揺はない。
身体が壊れていく。風が庭を吹き抜け、花壇の花弁が散るのが視界の端に映った。それはリーリエにとって、既知の事実だった。聖女の命は結界の燃料だ。燃料が消費されれば、器は脆くなる。指先から光が漏れるのは、器にひびが入ったということだ。
楽に死ねるかもしれない。
その考えが、淡く浮かんだ。以前なら安堵したはずだ。待ち望んでいた終わりが、身体の側から近づいてきたのだから。けれど今は——その考えが浮かんだ瞬間に、胸の奥で何かが微かに軋んだ。
「聖女様、お手が——」
マリカが駆け寄り、リーリエの手を見て息を呑んだ。指先の光は既に消えかけていたが、マリカの目はそれを捉えていた。
「大丈夫です。すぐに収まりますから」
「でも——」
「マリカさん」
リーリエは立ち上がり、スカートの土を払った。
「どうせ死ぬ身体です。今更、何が起きても同じことですよ」
マリカの顔が歪んだ。悲しみとも怒りともつかない表情。しかしリーリエはそれに気づかず、部屋に戻ろうと歩き出した。
渡り廊下で、カインが立っていた。午後の陽光が渡り廊下の柱に長い影を落とし、カインの半身を暗く染めている。
壁にもたれかかり、腕を組んでいる——ように見えたが、違った。腕が組まれているのではなく、拳が握りしめられているのだ。指の関節が白い。
深紅の瞳がリーリエの手を見ている。正確には、光が消えたばかりの指先を。その瞳が——凍りついていた。五百年前の記憶が、瞳の奥で蘇っているのがわかった。同じ症状。同じ光。同じ——結末の予兆。
リーリエは足を止めた。
「カインさま」
「……お前の手」
「見ましたか。少し光っただけです」
「少しじゃない」
カインの声は低かった。いつもの素っ気なさとは違う。押し殺したような、硬い声。
「何か問題ですか」
問いかけるリーリエの声は平坦だった。自分の身体に何が起きようと、どうでもいい——はずだった。教会にいた頃から、身体の異変は日常だった。めまい、発熱、手足の痺れ。全て結界の代償だ。いちいち気にしていたら精神が持たない。
「……何でもない」
嘘だった。明らかな嘘。カインの深紅の瞳が揺れている。表情を制御しようとして、制御しきれていない。
「隠し事ですか」
リーリエは淡々と聞いた。
「お前は気にするな」
「気にしていません。どうせ私に関わることでしょう。私が死ぬなら、知る必要もありません」
カインの拳が握りしめられた。骨が白く浮くほどに。額に浮いた汗が、こめかみを伝って落ちた。唇が微かに震えている——怒りではない。恐怖だった。
「同じではない」
低い声。地の底から絞り出したような。
「お前が死ぬことと、何かが起きることは——同じではない」
リーリエは一瞬、言葉を失った。
カインの目を見た。深紅の瞳が、怒りでも悲しみでもない何かを湛えている。必死さ、だろうか。あるいは——恐れ。
「……そうですか」
リーリエはそれだけ言って、カインの横を通り過ぎた。
背後でカインが動かない気配がした。振り返りはしなかった。
深夜。
城が寝静まった頃、カインは書庫にいた。
机の上に古い文献が広げられている。革の表紙が擦り切れた、数百年前の書物。聖女に関する記述。結界と聖女の身体の関係を記した章。
指先が頁をなぞる。震えてはいない。しかし力が入りすぎている。
——結界の媒介者の身体は、結界との接続強度に比例して劣化する。初期症状は眩暈及び末端部からの魔力漏出。中期症状は——
カインは文献を閉じた。
目を閉じる。
瞼の裏に、五百年前の記憶がちらついた。同じ症状を、見たことがある。あの人にも同じことが起きた。眩暈、指先の光、そして——
「間に合わせる」
声に出して言った。誰もいない書庫に、自分の声だけが響いた。
「今度は——間に合わせる」
文献を再び開く。答えは必ずある。聖女を救う方法が、この膨大な記録のどこかに。
五百年前は間に合わなかった。
今度は。
カインの深紅の瞳が、古い文字を追い続けた。窓の外では月が高く昇り、書庫の影が長く伸びている。
リーリエの部屋では、リーリエが眠っていた。
自分の指先が光ったことなど、もう忘れかけている。どうせ死ぬ身体だ。何が起きても同じこと。
——そう思ったはずなのに。
カインの「同じではない」が、胸の奥で小さく残響していた。
シーツの冷たさが肌に触れ、寝返りを打った拍子に窓の外の月が視界を横切った。夜の闇の中で、左胸の紋章が微かに脈打っている。いつもの鈍い光。いつもの鈍い痛み。けれどその光の向こうに——カインの声がある。必死な声。恐れを含んだ声。
リーリエのために恐れている声が。
それがどういう意味を持つのか、眠りの中のリーリエにはまだわからない。わかる日が来るのかどうかも——わからなかった。




