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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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雨の日の客間

 雨が降っていた。


 朝から灰色の雲が空を覆い、昼前から細い雨が降り始めた。窓ガラスを伝う水の筋が、外の景色を歪めている。雨の匂いが石壁の隙間から入り込み、城の空気を湿らせていた。やがて雨脚は強まり、午後には庭に出られないほどの本降りになった。屋根を叩く水音が絶え間なく響き、排水路を流れる水の音が低く唸っている。


 リーリエは客間の窓辺に座っていた。


 広い窓の向こうに、雨に濡れた庭が見える。花壇の花が重そうに首を垂れ、石畳の上を水が流れている。空は一面の灰。遠くの森がもやに霞んで、輪郭を失っていた。


 退屈だった。雨粒が窓を打つ単調な音が、時間の流れを鈍くしている。


 窓ガラスに指で線を引いてみた。水滴が指の跡に沿って流れ、小さな川を作る。それを眺めていると——退屈だと気づいた。


 リーリエはその感覚に、少し驚いた。


 退屈。教会にいた頃、退屈を感じたことがあっただろうか。痛みが絶え間なく続く日々に、退屈という余白はなかった。意識があるときは痛みに耐え、意識がないときは眠っている。それだけだった。


 ここに来てから——痛みは消えていないが、薄くなった。あるいは、痛み以外のものが増えた。料理をし、本を読み、花に水をやり、従者たちの騒ぎに巻き込まれる。そういうもので時間が埋まるようになった。


 雨の日は、それができない。だから退屈を感じている。


 退屈とは、何かをしたいのにできない状態のことだ。


 何かをしたい。


 自分が。


 その二文字が、胸の中で小さな石を落としたように波紋を広げた。教会にいた頃は「したい」がなかった。「すべき」だけがあった。祈るべき。耐えるべき。生きるべき——いや、燃え続けるべき。


 リーリエは窓に額を寄せた。ガラスが冷たい。雨粒が外側を流れ落ちていく。ガラスの内側に吐息が曇りを作り、すぐに消えた。


「……退屈」


 呟いた。声は小さく、雨音にかき消された。


 足音がした。


 客間の扉が開き、カインが入ってきた。手に本を持っている。リーリエを見て、一瞬立ち止まり、それから何も言わずに窓辺のもう一つの椅子に座った。


 本を開く。


 読んでいる——ように見えた。しかし頁を繰る速度が妙に遅い。


「何か用ですか」


 リーリエが聞いた。


「ない」


「ならなぜここに」


「雨が好きだ。ここからよく見える」


 嘘だった。


 リーリエにはわかる。カインが雨を好きだという素振りを、これまで一度も見たことがない。雨の日は書庫か執務室に籠もり、窓の外を見ることもなかった。


 嘘だと指摘することはできた。けれど、しなかった。


 なぜかは——わからない。わからないから、聞かなかった。


 二人の間に沈黙が落ちた。


 雨音だけが響いている。窓を打つ水の音、屋根を叩く音、排水路を流れる水の音。それらが重なり合って、一つの大きな静けさを作っていた。


 カインは本を読んでいる。あるいは読んでいるふりをしている。リーリエは窓の外を見ている。二人とも何も話さない。窓ガラスを伝う雨粒が、部屋の中に薄い影の模様を落としている。暖炉の薪が爆ぜ、微かに甘い煙の匂いが漂った。


 以前、一人で雨を見ていたときとは——何かが違った。


 教会では、雨の日は特に孤独だった。地下の部屋に雨音は届くが、人の気配は届かない。雨が降ると世界が遠くなる。水の壁の向こうに、自分だけが取り残される感覚。


 今は——水の壁はある。しかし壁のこちら側に、もう一人いる。


 カインの気配は静かだった。主張しない。話しかけてこない。ただそこにいる。本の頁を繰る微かな音。時折、椅子が軋む音。呼吸の音。カインの呼吸は深く、ゆっくりしていた。数百年を生きた人間の呼吸。急がない呼吸。その穏やかなリズムが、リーリエの呼吸をも緩やかにしていく。


 それだけ。


 けれどその「それだけ」が、雨音の質を変えていた。


 孤独の雨音と、誰かがいる雨音は——同じ音なのに、違う。


「……雨は」


 リーリエが口を開いた。自分でも驚いた。話すつもりはなかったのに。


「嫌いではありません」


 声に出してから気づいた。窓ガラスの曇りに吐息の跡が白く滲み、指先で触れると冷たい水滴が指の腹を濡らした。雨が嫌いではない。一人で聞く雨音は孤独を連れてきたのに、今は——嫌いではない。


 カインが本から目を上げた。深紅の瞳がリーリエを見て、一瞬だけ柔らかくなった。


「そうか」


 短い応答。それだけ。カインは再び本に目を戻した。けれどページを繰る手が、さっきより少し穏やかになった気がした。


 リーリエも窓の外を見た。雨は弱まる気配がない。灰色の空と灰色の大地の間を、水が静かに繋いでいる。


 しばらくして、マリカが茶を持ってきた。


「お二人とも、ここにいらしたんですね。お茶をどうぞ」


 カップを二つ、テーブルに置く。湯気が立ち、花茶の甘い香りが広がった。マリカは二人の様子を見て、何か言いたそうに口を開きかけ——微笑んだだけで去っていった。


 リーリエはカップに手を伸ばした。温かい。


 カインも無言でカップを取った。


 雨音と、茶を啜る音。二人の間に会話はなかったが、沈黙は苦しいものではなかった。


 教会にいた頃の沈黙は、空虚だった。誰もいない部屋で、痛みと二人きりの沈黙。


 ここの沈黙は——何だろう。空虚ではない。苦しくもない。名前をつけるなら、「心地よい」が最も近い。しかしリーリエはその言葉にたどり着かない。たどり着けない。心地よさとは何かを、まだ知らない。


 ただ「嫌ではない」ことだけが——わかった。


 雨音は続いている。けれどその雨音の中に、もう一つの音が混じっていた。カインがページを繰る音。小さくて、不規則で、けれど確かにそこにある。雨の中の、もう一つの生きている音。


 リーリエはカップを両手で包んだ。陶器越しの温度が、掌に沁みていく。


 窓の外で、雨が降り続けている。花壇の花が雨粒を受けて揺れている。水たまりに波紋が広がり、消え、また広がる。


 カインの本の頁が、一枚めくれた。


 リーリエはそれを聞きながら、茶を飲んだ。温かかった。花茶の甘い香りが鼻腔を満たし、舌の上でゆっくりと溶けていく。カップを持つ指先がじんわりと温まり、その熱が手首まで伝わっていった。


 雨が嫌いではない。


 この沈黙が嫌いではない。


 それ以上のことは——まだ、わからない。


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