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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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涙の記憶

 声の奔流が収まった後——リーリエは、崩れた。


 膝が折れた。


 書斎の椅子から滑り落ちるように、床に膝をついた。身体が震えている。全身から力が抜けている。手のひらが床の冷たい石に触れた。その冷たさだけが——現実の感覚だった。


 涙が——止まらなかった。


「みんな——みんな、生きたかったのに——」


 声が漏れた。抑えようとしたが、抑えきれなかった。堰を切ったように。凍りついた湖の氷が割れるように。



 昨日まで読んだ記録が頭の中で渦を巻いている。歴代聖女たちの声。「生きたかった」。その言葉が、胸の奥で木霊している。共鳴するように、リーリエ自身の心臓が応えていた。

 十七人以上の聖女たちの想いが、リーリエの中でまだ反響している。「生きたかった」「帰りたかった」「怖かった」「誰か聞いて」——一つ一つが重く、鋭く、リーリエの心を貫いている。一つの想いだけでも重いのに、それが何層にも重なって、リーリエの胸を圧迫していた。


 カインは——何も言わなかった。


 リーリエのそばに、静かに腰を下ろした。床に座り、リーリエの隣に。肩に手を置くわけでもなく、言葉をかけるわけでもなく——ただ、隣にいた。


 黒い外套が床に広がっている。カインの長い脚が投げ出されている。壁に背を預けて、リーリエのすぐ隣に。手を伸ばせば触れる距離。けれど触れない。


 沈黙が部屋を満たした。


 リーリエの嗚咽だけが、静かに響いていた。声を殺した泣き方。教会にいた頃、夜中に泣くときはいつもこうだった。声を出すと見つかる。見つかると——聖女は泣いてはいけないと叱られる。聖女は穏やかに微笑むもの。聖女は感情を乱さないもの。そう教えられた。


 けれど——ここは教会ではない。


 魔王城の書斎。隣にいるのは、声を出すなと言う人ではなく——黙って隣にいる人。泣くなと叱る人ではなく——泣いている間、ただそこにいてくれる人。


 リーリエは——声を出して泣いた。


 初めてだったかもしれない。声を抑えずに泣いたのは。十五歳の覚醒以来——声を上げて泣いたことがなかった。泣く力さえ残っていなかった。けれど今は——声が出る。涙が出る。身体が震える。


 それは——感情が戻っている証だった。


「あの人たちは——ずっと一人だった——」


 言葉が途切れ途切れに漏れた。


「炉の中で——誰にも聞いてもらえないまま——ずっと——何百年も——」


 何百年も。


 炉の中で声を上げ続けた。「聞いて」と。「生きたかった」と。けれど誰も聞かなかった。教会は聞こうとしなかった。世界は聞こうとしなかった。



 カインが向かいに座り、リーリエの表情を読み取っている。深紅の瞳が——いつもより穏やかだった。リーリエが覚悟を決めたことを、見て取ったのかもしれない。

 リーリエだけが——聞いた。


 同じ炉に繋がる最後の聖女として。


 カインは動かなかった。リーリエの隣で、壁に背を預けて座っていた。


 余計な言葉をかけなかった。「大丈夫か」とも「泣くな」とも言わなかった。ただ——そこにいた。


 以前のカインは違った。リーリエが苦しんでいると、すぐに言葉で守ろうとした。「食え」「寝ろ」「死ぬな」と命令形で。短い言葉を、壁のように積み上げて、リーリエを苦しみから遮断しようとした。


 けれど今は——言葉では足りない場面があることを知っている。


 存在で支える。


 隣にいるということだけで。


 その変化は——カインの成長でもあった。五百年の孤独を経て、他者の悲しみの隣にいることを——ようやく覚えた男。


 長い時間が過ぎた。


 蝋燭が一本、燃え尽きた。別の蝋燭の炎だけが、書斎を照らしている。


 リーリエの涙が——少しずつ、止まっていった。嗚咽が間遠になり、呼吸が整っていく。肩の震えが収まっていく。


 窓の外が白んでいた。いつの間にか夜が明けようとしている。薄い灰色の光が、窓から差し込み始めた。


 リーリエは涙を拭った。袖で。乱暴に。聖女らしくない仕草で。教会にいた頃なら叱られただろう。けれどここでは——誰も叱らない。


 そして——顔を上げた。


「この人たちの声を」


 リーリエの声は掠れていた。泣きすぎて喉が痛い。唇が乾いている。


「私が聞かなくて——誰が聞くの」


 カインが——リーリエを見た。


 泣き腫らした目。赤くなった鼻。乱れた銀灰色の髪。頬に涙の跡が光っている。


 けれどその目に——光があった。


 虚ろではない。絶望でもない。悲しみはある。痛みもある。けれどその奥に——使命感のような、決意のような、静かな炎が灯っていた。泣き崩れた後に——立ち上がる火。


「聞くよ。私が——聞く」


 リーリエは自分に言い聞かせるように言った。声が掠れているぶん、言葉の一つ一つに重みがあった。


「この人たちの声を、受け止める。消させない。もう二度と——嘘で塗り替えさせない」


 それは——悲しみに押し潰される言葉ではなかった。悲しみを通り抜けた先にある、覚悟の言葉だった。受動的な被害者から、能動的な継承者へ。


 カインが——息を吐いた。


 長い、深い息。五百年分の重荷を、少しだけ降ろしたような息。肩の力が——わずかに抜けた。


「……お前が、そう言うなら」


 カインの声は低く、穏やかだった。いつもの荒々しさがない。研ぎ澄まされた刃のような鋭さの代わりに、温かさがあった。


「俺も——一緒に聞く」


 短い言葉。けれどその中に——カインの全てが込められていた。


 一人で背負わなくていい。お前が聞くなら、俺も聞く。その重さを、共に負う。五百年間一人で背負ってきた男が——今、もう一人と重荷を分かち合おうとしている。


 リーリエは——微笑んだ。


 泣いた後の、ぎこちない笑み。目が腫れていて、鼻が赤くて、とても美しいとは言えない顔。教会で見せていた完璧な微笑みとは、似ても似つかない。


 けれど——目が笑っていた。


 ほんの少しだけ。目尻が下がって、目の奥に温かいものが浮かんでいた。


 カインがその笑顔を見て——一瞬、目を逸らした。何かを堪えるように。


 それから——立ち上がり、リーリエに手を差し出した。


「立てるか」


「はい」


 リーリエはカインの手を取って立ち上がった。膝が少しふらついたが——カインの手が支えた。大きな手。温かい手。


 書斎の窓から、朝の光が差し込んでいた。冬の朝日。淡い金色の光が、散らばった記録の上に降り注いでいる。歴代聖女たちの記録が——朝日に照らされて、黄金に光っていた。


 歴代聖女たちの声を——リーリエは聞いた。



 書斎の窓から差し込む冬の光が、テーブルの上の資料を照らしていた。リーリエが作った対照表、テレジアの計算ノート、初代聖女のメッセージの断片。全てが——一つの方向を指している。

 次は、その声を力に変える番だ。


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