本当は生きたかった
翌日。
リーリエは再び炉との繋がりに身を委ねた。
今度は——意識的に。紋章に手を当て、炉との接続を自ら呼び起こした。カインが隣にいる。リーリエの手を握ったまま。いつでも引き戻せるように。その手の温もりが——現実と繋がる綱になる。
「行きます」
リーリエは目を閉じた。
リーリエの膝が床の冷たい石に触れた。その冷たさだけが現実の感覚だった。身体は熱いのに、膝だけが冷たい。
紋章が脈打った。意識が沈んでいく。書斎の景色が薄れ、蝋燭の光が遠のき、カインの手の感触だけが残る。
光の渦が再び広がった。
声が——聞こえた。
昨日よりも穏やかだった。最初の衝撃が過ぎ、声たちがリーリエの存在に慣れたように。嵐の後の凪のような静けさの中で、一つ一つの声が——個として聞こえるようになった。
——来てくれたのね。
——また、来てくれた。
光の中に——人影が見えた。おぼろげな輪郭。顔の造作はわからない。けれど、一人一人が異なる光を放っている。金色の光。蒼い光。淡い緑の光。赤みがかった光。それぞれの聖女が——それぞれの色を持っている。
歴代聖女たちの残留思念。
リーリエは光の中に立った。足元に実感はない。浮いているようでもあり、立っているようでもある。
「皆さんの声を——聞かせてください。一番伝えたかったことを」
沈黙が落ちた。光が揺れた。互いの光が呼応するように、緩やかに脈打っている。
そして——声が、流れ始めた。
最初は一人の声だった。穏やかな、落ち着いた女性の声。
——私は、使命を受け入れたわ。
光が一つ、前に出た。柔らかな金色の光。
——世界を守るためだと信じていた。教えられたとおりに。疑わなかった。炉に身を捧げることは名誉だと——そう思い込んでいた。教会の聖歌隊が讃美歌を歌ってくれた。白い花が撒かれた。美しい儀式だった。
声が震えた。金色の光が揺れた。
歴代聖女たちの声を聞いた夜。泣き崩れて立ち上がった朝。リーリエの中で何かが決定的に変わった。受動的な被害者から、能動的な継承者へ。聞く者から、伝える者へ。
——でも最後の瞬間に——炉に命が吸われていく瞬間に——思ったの。生きたかった、って。名誉とか使命とか——全部消えて、ただ、生きていたかった。朝の光を見たかった。もう一度、パンを焼く匂いを嗅ぎたかった。そんなことばかり浮かんだの。
次の声が重なった。若い声。震える声。蒼い光が前に出た。
——私は怖かった。ずっと怖かった。炉に向かう日が近づくたびに、夜中に震えていた。侍女にも言えなかった。怖いと言ったら——弱い聖女だと思われる。だから笑っていた。最後まで笑っていた。笑顔の裏で、歯を食いしばっていた。
声が途切れた。蒼い光が激しく明滅した。
——死にたくなかった。
三人目。四人目。五人目。
声が次々と流れ込んでくる。
使命を誇りに思った聖女。絶望して炉に入った聖女。泣きながら受け入れた聖女。最後まで抵抗した聖女。何も知らされないまま命を奪われた聖女。母の名を呼んだ聖女。恋人の顔を思い浮かべた聖女。何も思い出せなかった聖女。
立場も時代も違う。性格も、覚悟の仕方も、死に方も違う。
けれど——最後の瞬間に、全員が思ったことは同じだった。
窓の外が白んでいた。薄い灰色の光が窓から差し込み始め、散らばった記録の上に朝の光が降り注いでいた。
——生きたかった。
——本当は、生きたかった。
声の奔流がリーリエを包んだ。十七人分の——いや、もっと多いかもしれない。炉の中に溶け込んだ無数の想いが、最も純粋な形で結晶して、リーリエに届いた。
「崇高な犠牲」の嘘。
教会が美化した「聖女の使命」の裏に——ただ「生きていたかった」という、素朴で、人間として当たり前の、それだけの願いがあった。崇高でも何でもない。ただの——生きたいという、命の根源にある叫び。
リーリエの中で——何かが震えた。
歴代聖女たちの「生きたかった」が、リーリエの内側で共鳴している。骨が鳴るような。心臓が揺さぶられるような。
リーリエ自身は——かつて「死にたかった」。
終わらない苦痛に疲れ果て、崖から身を投げた。生きることに意味を見出せなかった。世界に何も感じなかった。「死にたい」というよりも、「もういい」「疲れた」だった。
けれど今——歴代聖女たちの「生きたかった」が胸に流れ込んで、リーリエの凍結した感情の奥底で——何かが動いた。
小さな何か。
まだ名前をつけられない。「生きたい」とはまだ言えない。けれど——「死にたい」だけではない何かが、自分の中にもあるかもしれない。それは種子のような、芽吹く前の何か。土の下で——微かに脈打っている。
その微かな気づきが——リーリエの目を、大きく見開かせた。
声の中に——一つだけ、異なる響きがあった。
他の声が「生きたかった」と過去形で語る中、一つだけ——未来に向けた言葉を紡ぐ声。
——あなたは、生きてね。
温かい声。柔らかい声。他の声とは——質が違う。もっと深い場所から、もっと長い時間をかけて届いたような声。母のような。姉のような。けれどそのどちらでもない——もっと根源的な温かさを持つ声。
その声が誰のものか——リーリエにはまだわからなかった。
けれど——その言葉だけが、他の全ての声の中で、唯一——痛みではなく温もりを運んでくれた。
光が薄れていく。声が遠のいていく。光の渦が収束し、人影が溶けていく。
リーリエは現実に戻った。
書斎。蝋燭の炎。カインの手の温もり。硬い椅子の感触。暖炉のパチパチという音。
頬が——濡れていた。涙がとめどなく流れている。いつから泣いていたのかわからない。
「……聞こえました」
リーリエは呟いた。声が掠れている。
「全員が——本当は、生きたかったんです。使命を受け入れた人も、抵抗した人も。最後に思ったのは——同じでした」
カインが何も言わずにリーリエの手を握っている。強く。けれど痛くはない。
「生きたかった。本当は——生きたかった」
リーリエの声が、涙で濡れていた。
歴代聖女たちの想いを——リーリエが背負った。その重さが彼女を押し潰すのか。
リーリエの嗚咽が徐々に収まっていった。肩の震えが止まる。呼吸が整う。窓から差し込む朝日が、涙の跡が残る頬を温かく照らしている。
カインが手を差し出した。「立てるか」。短い言葉。けれどその手は——五百年前にエルシェに届かなかった手。今度は——届いている。リーリエの手を取り、引き上げる。小さな手が大きな手に包まれる。
それとも——。




