声の正体
それは、突然だった。
テレジアの記録を読み終え、次の記録に手を伸ばしたとき——リーリエの左胸が、灼けた。
聖女の紋章。銀白の紋様が、服の下で強く発光した。光が布を透過して、白い輝きがリーリエの胸元を照らしている。
「——っ」
リーリエは胸を押さえた。痛みではない。けれど熱い。紋章が脈打つように明滅している。心臓と同期するように——いや、心臓よりも速いリズムで。炉との繋がりが——強まっている。
「リーリエ!」
カインが椅子を蹴って立ち上がった。書斎の静寂を破る、鋭い声。テーブルの角に膝がぶつかったが、痛みに構う様子もなく、リーリエの傍に駆け寄った。
「大丈夫——大丈夫です。痛くはない……ただ、紋章が——」
紋章の明滅が激しくなった。リーリエの意識が——引かれた。
遠くへ。
深い場所へ。
書斎の景色が霞んでいく。テーブルの木目が滲み、蝋燭の炎が遠い星のようになり、カインの声が水底から聞こえるような響きに変わった。
代わりに——別のものが聞こえ始めた。
声。
たくさんの声。
重なり合う声。囁くような、泣くような、叫ぶような——幾重にも重なった声が、リーリエの意識に流れ込んできた。波のように。潮流のように。抗えない力で。
「——聞こえる。誰かの……声が……」
リーリエの瞳が焦点を失った。薄い青紫の瞳が——虹彩が広がるように変化し、紋章と同じ銀白の光を帯びた。
目の前に——光の奔流が広がった。
白い光。金色の光。銀色の光。蒼い光。無数の光が渦を巻いている。光の一つ一つが——意志を持っている。光の一つ一つが——声を持っていた。
——生きたかった。
最初に聞こえたのは、その言葉だった。幼い声。かすかに震える声。二代目聖女の——名前も残されなかった少女の声。記録の中の文字が、ここでは生きた声になっている。
——帰りたかった。
次に聞こえたのは、逃げた聖女の声。山を越え、森を抜け、春の花を見たかった女性の声。切実で、熱くて、悲しい声。
——誰か、聞いて。
冬の朝の光が差し込み始めた。
——お願い、聞いて。
——ずっと呼んでいた。
声が重なる。四代目。七代目。八代目。十代目。テレジア。消された聖女たち。名前のある者。ない者。全員の声が——炉の中から、リーリエに向かって流れ込んでくる。
これが——夢に現れていた「知らない女性の声」の正体だった。
以前から繰り返し夢に現れていた、正体不明の声。眠りの淵で聞こえる、遠い場所から届くような声。時に「待って」と。時に「聞いて」と。リーリエはそれを、夢の残滓だと思っていた。疲れた心が作り出す幻聴だと。
違った。
炉に命を注いだ歴代聖女たちの——残留思念。
炉の中で眠る魂たちの声が、同じ炉に繋がるリーリエに——ようやく届いた。歴代聖女の記録を読み、その存在を認識したことで——繋がりが強まり、声が鮮明になった。
「あなたたちは——」
リーリエは光の渦の中で立っていた。身体が浮いている感覚。足元に地面はない。上下もない。ここは書斎ではない。意識だけが——炉の深奥に引き込まれている。
声が——明瞭になった。
——聞こえるの?
——私たちの声が、聞こえるの?
何人もの声が重なっている。驚きと、安堵と、哀願が入り混じった声。
「聞こえます」
リーリエは答えた。声が出ているのかわからない。意識だけで語りかけている。けれど——通じた。声たちが反応した。
「聞こえます——皆さんの声が」
光が揺れた。歓喜のように。悲嘆のように。五百年分の孤独が——一瞬だけ、解けたように。
——やっと。やっと——聞いてくれる人が。
——ずっと呼んでいた。ずっと——。
——ありがとう。ありがとう——。
声の奔流がリーリエを包んだ。圧倒的な感情の波。何百年分の孤独と悲しみと願いが——一度に押し寄せてきた。重い。途方もなく重い。一人分の想いですら胸が張り裂けそうなのに、それが何人分も。
リーリエの目から涙が溢れた。
自分の涙なのか、彼女たちの涙なのか——もう区別がつかなかった。
——聞いて。
——私たちの声を。
——どうか——。
声が——さらに深い場所に引き込もうとした。リーリエの意識が、炉の核に向かって沈んでいく。光の渦が加速する。引力が強まる。このまま沈んでいけば——もっと多くの声が聞ける。もっと深い記憶に触れられる。
けれどそれは——リーリエの命を、さらに削ることになる。
そのとき——手を掴まれた。
強い力。現実の手。五本の指がリーリエの手首を掴む、確かな感触。
カインの手だった。
「戻ってこい、リーリエ!」
カインの声が——光の向こうから、力強く響いた。光の渦を貫いて、現実の声が届いた。
リーリエの右手に——カインの手の温もりが伝わった。大きな手。強い手。崖から落ちるリーリエを掴んだ、あの手と同じ——。
意識が——引き戻された。
光が収束した。声が遠のいた。渦が解け、光が薄れ、代わりに——書斎の景色が戻ってきた。
蝋燭の炎。木のテーブル。羊皮紙の束。暖炉の赤い光。そして——リーリエの手を強く握るカインの手。
「——カイン、さん」
「戻ったか」
カインの声は平静を装っていたが——手が震えていた。リーリエの手を握る力が、痛いほどに強い。離すまいとするように。
「すみません、私——」
「謝るな。何が起きた」
リーリエは深く息を吸った。身体に戻った感覚。紋章の発光が収まっていく。現実の重力が戻ってくる。
「歴代聖女の……声が聞こえました。炉の中に——残留思念がありました。炉に命を注いだ聖女たちの想いが、ずっと——ずっと残っていたんです」
カインの目が見開かれた。
「残留思念——」
「夢に出ていた声の正体です。あの『知らない女性の声』は——炉の中の聖女たちでした。ずっと呼んでいた。聞いてほしいと——ずっと」
リーリエの声が震えた。涙がまだ頬を伝っている。
カインは——リーリエの手を離さなかった。
「お前の身体に——異常はないか」
「ありません。ただ——少し、疲れました」
「もう十分だ。今日は休め」
「いいえ」
リーリエはカインの手を握り返した。強く。
「まだ——聞きたいことがあるんです。あの人たちが、一番伝えたかったことを」
カインが息を詰めた。
リーリエの目に——決意があった。涙で濡れた目。けれどその奥に——揺るがない光。
歴代聖女たちの声が、リーリエを待っている。
彼女たちが最も伝えたかったことを——リーリエは、聞かなければならない。




