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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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未完の夢

 テレジアの日記は、研究ノートの裏に綴られていた。


 数式と図面の合間に、小さな文字で書かれた個人的な言葉。学術的な記録とは違う、柔らかな筆致。インクの色が数式とは異なる——研究にはしっかりとした黒インクを使い、日記には薄い茶色のインクを使っていた。二つの色が一枚の紙の上に共存している。研究者としてのテレジアと、一人の人間としてのテレジア。


 リーリエはそれを、声に出して読んだ。


「『聖暦四〇八年、春。炉の研究を始めて一年が経った。身体が重い。以前は走れたのに、今は廊下を歩くだけで息が切れる。炉が命を吸っている。それは知っている。数式で計算した。あとどれくらいか、もわかっている。だからこそ、急がなければ』」


 テレジアの文字は、最初のうちは力強い。ペンを握る手に力があり、一画一画が明瞭だ。しかし日記が進むにつれ——文字が小さくなり、筆圧が弱くなっていく。文字の端が震えている。手に力が入らなくなっていく過程が——そのまま文字に刻まれていた。


「『聖暦四〇八年、秋。分散型の基本方程式が解けた。嬉しい。嬉しいのに——身体がもう追いつかない。目が霞む。長い時間書き続けると、指が動かなくなる。でも止められない。この計算を完成させなければ。私が死んだ後、誰かがこの続きを見つけてくれるかもしれないから』」


 リーリエの声が——微かに揺れた。


「『聖暦四〇九年、夏。分散型の理論がほぼ形になった。しかし検証ができない。炉に直接触れなければならないのに、教会が許すはずがない。聖女が炉の仕組みに疑問を持つこと自体が「不敬」になる。私の研究が知られれば——消される。粛清される。だからこの記録は隠す。いつか、誰かが見つけてくれることを信じて』」


 いつか、誰かが見つけてくれることを信じて。


 カインがその言葉で——目を閉じた。


 カインが見つけた。数百年後に、東方の図書館の壁の裏から。テレジアの祈りは——届いた。途方もなく長い時間をかけて。けれど——確かに。


 リーリエは日記の最後の頁を開いた。文字が——震えていた。もう筆を真っ直ぐに持てなかったのだろう。文字が歪み、行が傾き、インクの染みがところどころにある。それでも——テレジアは書いていた。最後まで。


「『聖暦四一〇年、冬。もう長くない。手が震えて、数式が書けなくなってきた。悔しい。本当に悔しい。答えは——もう少しで見えそうなのに。あと数ヶ月あれば。あと一年あれば。もし時間があれば——別の方法を、見つけられたかもしれない。でも、時間がなかった。初代聖女もそうだったのかもしれない。時間がなかったから、自分の命を選んだ。私も同じだ。時間がなかった』」


 リーリエの声が——揺れた。声が掠れて、一瞬途切れた。


 深呼吸をして——続けた。


「『でも、この計算が正しければ——いつか誰かが、別の方法を見つけられるはず。その人のために、私はこれを遺す。次の聖女が、その次の聖女が——同じ苦しみを味わわなくてもいいように。それが私の——唯一の抵抗。教会は私の命を奪える。炉は私の寿命を削れる。でも、この紙だけは——私のもの。私の言葉。私の計算。私の想い。これだけは——誰にも消させない』」


 この紙だけは——私のもの。


 リーリエの目から涙が溢れた。


 テレジアは自分のために研究をしたのではなかった。自分の命はもう助からないとわかっていた。寿命を計算できるほどの知性を持つ女性が——自分の死期を正確に知りながら、それでも。


 未来の聖女のために、命を削りながら計算を続けた。


 自分のためではなく。


 まだ見ぬ誰かのために。


 教会に全てを奪われながら——紙の上の言葉だけは、自分のものだと宣言した。その矜持。その意志。


「この人は——」


 リーリエは涙を拭った。袖で、乱暴に。


「この人は、未来を信じていたんですね。自分の命が尽きても、誰かが続きを見つけてくれると。その誰かのために——最後の力を振り絞って、計算を遺した」


 カインが静かに頷いた。深紅の瞳が——遠い場所を見ていた。


「あいつの——初代聖女の言葉と、同じだ」


 初代聖女エルシェ。「犠牲が必要なら、せめてこの犠牲を最後にする方法を遺す」。


 そしてテレジア。「この計算が正しければ、いつか誰かが別の方法を見つけられるはず」。


 二人は時代も立場も違う。直接の面識もない。数百年の隔たりがある。しかし——同じ方向を向いていた。同じ未来を信じていた。


「初代聖女の直感と、テレジアの計算——」


 リーリエが呟いた。


「この二つを合わせれば……別の方法に、たどり着けるかもしれない」


 カインの声に——初めて、悼みの中の安堵が混じった。


「あいつの言葉が、数百年後にこうして繋がるとはな」


 その声を、リーリエは聞き逃さなかった。


 カインの声の中に——切なさがあった。同時に、安堵があった。初代聖女の遺志が無駄ではなかったことへの——静かな、深い安堵。喪失と希望が同居する声。


 五百年。


 カインは五百年間ずっと初代聖女の遺した可能性を探し続けていた。たった一人で。暗闇の中で。手がかりが見つかることもあれば、数十年かけた調査が徒労に終わることもあっただろう。


 そしてテレジアの記録が、それを裏付けた。初代聖女の直感は——正しかった。


 リーリエはカインの表情を見つめた。


 深紅の瞳が——遠くを見ていた。今ここにいない人を見る目。初代聖女を——エルシェを思い出している目。金色の髪と翠の瞳を、記憶の中に探している目。


 リーリエの胸に——小さな痛みが走った。


 それは前にも感じたことのある痛み。カインの目が「今ここにいない人」を見るとき、リーリエの胸に芽生える、名前のつけられない感覚。


 けれど今は——それを脇に置いた。


 今は、テレジアの遺志を受け止めるときだ。


「カインさん。テレジアの計算の欠落部分——私が補えるかもしれません」


「何だと?」


「私は炉と繋がっています。聖女として——炉の構造を、感覚的に知っています。テレジアが理論で届かなかった部分を、私の感覚で埋められるかもしれない」


 カインの目が——鋭くなった。期待と警戒が入り混じった目。


「……危険だ」


「知っています。でも——テレジアは命を削って、ここまで辿り着いたんです。次は私の番です」


 リーリエの声は——静かだった。けれど、揺るがなかった。


 理論の断片は見えた。初代聖女の直感。テレジアの計算。リーリエの炉との繋がり。


 三つのピースが——揃いつつある。


 しかし、まだ足りない。リーリエはまだ、歴代聖女の「声」そのものには触れていなかった。


 記録として読んだ。文字として知った。けれど——声を、直接聞いたわけではない。


 その声が——リーリエを待っていた。


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