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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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炉を研究した聖女

 調査を再開した翌日、リーリエは異質な記録を見つけた。


 他の記録とは明らかに違う。羊皮紙ではなく、薄い紙に細かな文字で書かれた束。紙質が良い。教会で使われる公式の羊皮紙ではなく、学者が個人的に使う種類の紙だった。そして——文字だけではなかった。数式。図面。円と線で描かれた幾何学的な図形。曲線が交差し、変数が注釈として添えられている。


「これは……」


 リーリエは紙束を丁寧に広げた。文字は古い書体だが、教会の典礼文ではない。もっと——学術的な文体。論文のような、研究者のような書き方。


「聖暦四〇七年。第十一期聖女——テレジア」


 名前があった。この聖女には——名前が残っていた。公式記録から消されなかった十二人に含まれる聖女。けれどその記録の中身は——公式記録とは全く異なるものだった。


「テレジア……」


「炉を研究した聖女だ」


 カインが対面から身を乗り出した。深紅の瞳に、鋭い光が宿っている。いつもの無愛想な顔ではない。知的な興奮が——その表情に浮かんでいる。


「歴代聖女の中で唯一、炉そのものの仕組みを理解しようとした人物。俺がこの記録を見つけたのは——東方の古い図書館の、壁の裏だった。図書館自体は教会が接収したが、壁の隙間に隠された束までは見つけられなかったらしい。誰かが——教会の接収を予見して、壁の裏に押し込んだのだろう」


 壁の裏。


 誰かが命がけで隠した記録。教会に見つかれば焼却される。隠した人物も粛清される。それでも——この記録を残す価値があると判断した誰かがいた。


 そしてその記録が数百年の時を経て、カインの手に渡り、今——リーリエの前にある。


 リーリエは数式に目を走らせた。教会で受けた教育には高等数学も含まれていた。聖女候補に課される教育課程は幅広い。聖典、古代語、歴史、神学——そして数学と結界理論の基礎。テレジアの記法は古い形式だが、根底にある数学は同じだ。少し手間取りながらも——読めた。


「これは……炉のエネルギー収支の計算ですね」


「わかるのか」


「教会で習いました。聖なる炉の基礎理論は——聖女候補の教育課程に含まれていたんです。皮肉なことに。自分が投じられる炉の仕組みを教えられる——けれど、それを疑う視点は与えられない」


 リーリエの口元に、苦い笑みが浮かんだ。


 テレジアの記録は精緻だった。炉の構造を数学的に解析し、エネルギーの流れを図式化している。リーリエが教育で学んだ炉の理論は表面的なものだったが、テレジアはその奥にある本質を——一人で掴もうとしていた。独学で。命を削られながら。研究の道具も満足にない環境で。


 その執念に——リーリエは胸を打たれた。


 テレジアの筆跡は、最初は力強かった。ペン先が紙に食い込むような確かな筆圧。けれど後半に向かうにつれて、文字は震え始めていた。


「ここです」


 リーリエが一枚の紙を取り上げた。テレジアの筆跡が、最も力強い箇所。結論に至る前の、核心的な一頁。


「テレジアは炉のエネルギー供給方式を分析しています。現在の炉は——一人の聖女の命を燃料とする一点集中型。全てのエネルギーが一つの源から供給されている」


「ああ。初代聖女が設計した方式だ。時間がなかったから——最も効率的な方法を選んだ」


「テレジアはその方式に疑問を呈しています。『一点集中型は効率的であるが、脆弱である。源が失われれば即座に全機能が停止する。これは設計思想として合理的ではない。もし——分散型の供給が可能であれば』」


 分散型。


 一人の命ではなく、多くの人々から少しずつエネルギーを集める方式。


 リーリエの指が、テレジアの数式をなぞった。インクが薄れかけた文字。けれど数式の論理は明快だった。


「ここに計算があります。『一点集中型の燃料供給を分散型に変更した場合、個々の負担は現在の聖女が受ける負荷の数万分の一以下に軽減される。理論上、人体が感知できないほど微小な負担で、炉の維持は可能である』」


 数万分の一以下。


 人体が感知できないほど微小。


 つまり——誰も犠牲にならない。誰も苦しまない。誰も死なない。炉は動き続け、結界は維持され、しかし一人の命が燃料として消費されることはない。


「……この計算は、正しいですか」


「俺が検証した限りでは——方向性は正しい。ただし不完全だ。テレジアの計算には、いくつかの前提条件が欠けている。分散型に切り替えるための具体的な手順、炉の構造をどう改変するかの設計図——そこまでは辿り着いていない」


「研究の途中で——」


「ああ。命が尽きた」


 テレジアは炉に命を消費されながら、その炉の仕組みを研究していた。自分を殺すものの構造を解き明かし、次の聖女が同じ目に遭わないようにと——計算を続けた。


 命を削りながら。時間と競争しながら。


「カインさん。この人の研究は——初代聖女の理念と同じ方向を向いていますよね」


「ああ。初代聖女は直感的に分散型の可能性を示唆していた。テレジアはそれを——数学的に裏付けようとした。時代も方法も違うが、二人が向いている方向は同じだ」


 リーリエはテレジアの記録を胸に抱えた。薄い紙束。けれどその中に——一人の聖女の知性と勇気と、未来への祈りが詰まっている。


「この人の研究を——引き継ぐことが、できるかもしれない」


 カインの目が——僅かに、見開かれた。


「引き継ぐ……?」


「初代聖女の言葉と、テレジアの計算。この二つを合わせれば——まだ足りない部分があるとしても——別の方法に近づけるかもしれません」


 リーリエの声には、確信があった。記録を読み、怒りを覚え、泣き崩れた先に——この確信がある。


 カインは——リーリエを見つめた。記録を抱えるリーリエの目に、光が宿っている。死にたがりの虚ろな目ではない。何かを見つけた人間の——輝き。


「……よく見つけた」


 珍しく——素直な言葉だった。飾りのない、率直な称賛。


「え」


「よく見つけた、と言ったんだ」


 リーリエが驚いた顔をした。カインの口から素直な褒め言葉が出ることは——極めて稀だ。


「……今、褒めましたか?」


「気のせいだ」


 カインがそっぽを向いた。


 リーリエは小さく笑った。その笑みは——嬉しさを含んでいた。カインに褒められたことへの、純粋な嬉しさ。胸の中が少しだけ温かくなる。


 テレジアの記録は、まだ続きがある。次は——彼女の日記。研究の記録ではなく、一人の人間としての言葉が残されている。


 炉を研究した聖女は——何を思い、何のために計算を続けたのか。



 テレジアの記録を胸に抱えたリーリエの目に——光が宿っていた。虚ろさはない。諦めもない。代わりにあるのは——確信。この記録が道を開く。初代聖女の直感とテレジアの計算を繋げれば——第三の道に辿り着ける。

 その答えが、次の頁にあった。


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