日常の救い
翌朝。
リーリエは重い記録から離れ、城の中を歩いていた。
何日も書斎に篭りきりだった。歴代聖女の悲劇、教会の改竄、粛清の記録——頭の中が暗い情報で飽和している。身体は疲れていないのに、心が重い。
廊下を歩く足取りが——少し、遅かった。
「リーリエ様」
声がかかった。
振り返ると——マリカがいた。魔王城の厨房を預かる小柄な魔族の女性。丸い目にいつもの温かな光を湛えて、エプロン姿で立っている。
「今日のごはん、何がいいですか?」
何気ない問いかけ。
厨房の空気は温かかった。石造りの魔王城の中で、ここだけが別の世界のように——柔らかくて、甘くて、生きている匂いがした。
日常の、ありふれた、何気ない——一言。
リーリエの強張った顔が——ほどけた。
「……何が、いいですか、って」
「はい。お肉にします? お魚にします? リュカさんが市場で新鮮な野菜をたくさん仕入れてきたから、何でもできますよ」
今日のごはん。
歴代聖女の記録。教会の暴力。粛清。改竄。数百年の闇——その全てから一瞬で引き戻してくれる言葉。
「何でも……いいです」
「あらら。カインさんがその返事を聞くと、三時間くらい献立を悩むんですよ?」
マリカが小さく笑った。リーリエも——つられて、笑った。
「じゃあ……焼き菓子が食べたいです。前に、教えてもらったやつ」
「あの蜂蜜のやつですね! じゃあ一緒に作りましょう。ちょうど良い蜂蜜があるんですよ」
マリカに手を引かれるようにして、リーリエは厨房に入った。
厨房は温かかった。大きなかまどに火が入っていて、鍋からは何かのスープの匂いがしている。壁に吊るされた鍋やフライパンが銅色に光っている。窓から差し込む冬の光が、粉を撒いた調理台を白く照らしていた。
「はい、エプロンです」
マリカがエプロンを差し出した。リーリエはぎこちなく身につけた。教会ではこんなことをしたことがなかった。魔王城に来てから初めて——厨房に立つことを覚えた。
「まず小麦粉をふるいますね。リーリエ様、ここをこう——」
「こう……ですか」
「もう少し優しく。ほら、粉が飛び散って——」
「あっ」
マリカが笑いながらリーリエの髪の粉を払ってくれた。その手は温かかった。柔らかかった。母の手を知らないリーリエにとって——マリカの手は、一番近いものだった。
「マリカさん」
「はい?」
「……ありがとうございます」
「何ですか急に。照れちゃいますよ」
マリカが笑った。リーリエも笑った。小さく、けれど確かに。
小麦粉が舞い上がった。リーリエの銀灰色の髪に、白い粉が降りかかった。
マリカが噴き出した。
「ふふ、雪みたい」
リーリエは自分の髪を見下ろした。白い粉だらけ。みっともない姿。けれど——可笑しかった。
小麦粉の白い粒が、銀灰色の髪の上でキラキラと光っている。蝋燭の光を受けて、まるで星屑を纏ったようだった。
「……雪みたいですね」
小さく——笑った。
それから、蜂蜜を混ぜ、生地をこね、型に入れてかまどに入れた。焼ける匂いが厨房に広がった。甘い匂い。蜂蜜とバターが溶け合う、温かい匂い。
「あ、いい匂い」
リュカが厨房に顔を出した。
「お嬢と焼き菓子っすか。いいすね、俺にも分けてくださいよ」
「焼き上がるまで待ちなさい」
マリカがリュカの手を叩いた。リュカが「いてて」と大袈裟に手を振る。
その光景を見ながら——リーリエは思った。
ここにある日常が、自分を支えている。
歴代聖女の記録は重い。教会の闇は深い。けれど——ここには、「今日のごはん何がいい?」と聞いてくれる人がいる。一緒に菓子を焼いてくれる人がいる。つまみ食いをしようとして叱られる人がいる。
この日常が——帰る場所だ。
焼き菓子がかまどから出された。こんがりと焼けた表面に、蜂蜜の艶がある。
焼き菓子の甘い匂いが鼻腔を満たした。蜂蜜とバターが溶け合う、黄金色の香り。この匂いだけで世界は美しいと思えた。
リーリエがひとつ手に取った。温かい。割ると、中からふわりと甘い蒸気が立ちのぼった。
一口。
「……おいしい」
素直な感想。教会では「美味しい」と感じることすら——忘れていた。味がわからなかった。何を食べても同じだった。
今は——違う。
甘い。温かい。美味しい。
そこに——重い足音が近づいてきた。
カインだった。
黒い外套を翻して、厨房の入口に立っている。深紅の瞳が——焼き菓子を見て、微かに動いた。
「……何を焼いている」
「焼き菓子です。食べますか?」
リーリエが一つ差し出した。
カインは一瞬躊躇し——受け取った。一口齧る。
咀嚼。
「……悪くない」
リュカが「旦那様、それ『美味い』って意味っすよね」と小声で言い、カインに睨まれた。
「素直に美味しいと言えばいいのに」
リーリエが呟いた。その声には——からかうような温かさがあった。
カインの耳が——僅かに赤くなった気がした。気のせいかもしれない。厨房が暖かいからかもしれない。
厨房の窓から差し込む冬の光が、四人の姿を照らしていた。笑い声と食器の音とかまどの温もり。これが日常だ。暗闇の中の灯台。
「……焼き過ぎだ」
「え、そうですか?」
「もう少し短く焼けば、中がしっとりする」
「カインさん、お菓子作りに詳しいんですか?」
「……五百年生きていれば、多少は」
リュカが「旦那様、昔お菓子焼いてたんすか」と茶化して、今度は本気で睨まれた。
厨房に笑い声が響いた。マリカの笑い声。リュカの軽口。リーリエの小さな笑み。そしてカインの——不機嫌を装った沈黙。
日常。かけがえのない、温かい日常。
たわいのない日常。
けれどこの日常が——リーリエの心を、静かに、確実に、癒やしていた。
リーリエは二つ目の焼き菓子を手に取った。
明日からまた、記録の調査に戻る。歴代聖女の声を聞く旅は、まだ続く。
けれど——帰る場所がある。
この厨房。この温かさ。この人たち。
リーリエは焼き菓子を手に取り、もう一口齧った。外側はサクサクと軽い歯触り、内側はしっとりと甘い。舌の上で蜂蜜が溶ける。この甘さを——歴代聖女たちは知っただろうか。教会の中で、こんなふうに笑いながら菓子を焼く日があっただろうか。
リーリエの目が一瞬潤んだ。けれどすぐに瞬きで追い払った。今は泣く時ではない。今は——笑う時だ。この日常を守るために。この温かさを、誰にも奪わせないために。
焼き菓子の甘さが、舌の上に残っていた。




