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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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粛清の記録

 粛清の記録は、最も薄い束だった。


 数枚の羊皮紙。それも大部分が意図的に破損させられており、読める部分は断片に過ぎない。しかし——その断片だけで、十分だった。


「聖暦三一五年。司祭トマス・ヴィレンの進言書」


 リーリエが読み上げた。



 薄い羊皮紙の上に、一人の人間の良心が記されていた。乾いたインクの下に——熱い血が流れていた。聖女の死を目の当たりにして、「これは間違っている」と声を上げた人間の言葉。

「『聖女の犠牲は真に必要なものか。炉の維持に一人の命を費やすことは、教えに照らして正しきことか。我は聖女の最期を看取り、その苦しみを目にした。あの死を「崇高」と呼ぶことに、我が良心は耐えられぬ』」


 司祭トマス・ヴィレン。


 教会の中にいた人間が——声を上げた記録。


「この司祭は……聖女の最期を直接見たんですね」


「ああ。看取り役として炉の前にいた。記録によれば、聖女が炉に命を注ぐ最後の瞬間——叫び声を上げたらしい。公式記録では『安らかに微笑んだ』と書かれている瞬間に」


 リーリエの喉が、きゅっと締まった。


 進言書の続き。


「『炉の構造を研究し、別の方法を模索すべきである。一人の犠牲に頼る仕組みは脆弱であり、倫理的にも持続的にも問題がある。教会は叡智を結集し、犠牲を伴わぬ方法を探るべきである』」


 理知的な文章だった。感情に流されず、論理的に問題を提起している。この司祭は——ただ嘆いたのではなく、具体的な代替案まで提案していた。


「この進言書は——どうなったんですか」


「進言書が提出された翌月の記録がある」


 カインが別の羊皮紙を広げた。


「『聖暦三一五年、冬。司祭トマス・ヴィレン、異端の嫌疑により審問を受ける。聖女の使命を否定し、教会の根幹を揺るがす思想を流布したかどにより、聖職を剥奪。以後の消息不明』」


 消息不明。


 進言書を出した翌月に異端審問。聖職剥奪。そして——消された。


「一ヶ月……」


「一ヶ月もかかっていない。進言書が上層部に届いた時点で、この司祭の運命は決まっていたんだろう」


 リーリエは進言書を手に取った。黄ばんだ羊皮紙。インクが薄れかけている。この紙に、一人の人間の良心が記されていた。聖女の死を目の当たりにして、「これは間違っている」と声を上げた人間の言葉が。


 そしてその声は——潰された。



 リーリエは司祭トマスの進言書をもう一度読み返した。「我が良心は耐えられぬ」。その一言に、リーリエは共感した。自分もまた——耐えられないと感じている。この構造に。この暴力に。

「この人だけではありません——よね」



 七人。七つの良心が声を上げ、七つとも消された。教会の壁は厚い。内側から叩いても、外には聞こえない。けれどカインが——壁の外から、その声を拾い上げた。

「ない。俺が見つけた限りでは、少なくとも七名の教会関係者が同様の形で粛清されている。司祭、修道士、聖堂の書記官——立場は様々だが、共通しているのは全員が聖女制度に疑問を呈したということだ」


 七名。


 七人の人間が、「おかしい」と思い、声を上げ、そして消された。


「教会の中にも——おかしいと思った人はいたんですね」


 リーリエの声は静かだった。けれどその奥に、昨日芽生えた怒りが——くすぶっていた。


「いた。だが声を上げた人は全員——」


 言葉が途切れた。その先を言う必要はなかった。


 全員、消された。


 教会は外の敵だけでなく、内の声も潰してきた。聖女制度を維持するために、外からの脅威(逃亡する聖女、魔王と呼ばれたカイン)だけでなく、内側の良心までも——組織的に排除した。


 この構造は——完璧だった。


 外部からの攻撃にも、内部からの改革にも対応できる。声を上げれば潰される。逃げれば追われる。誰も抗えない。誰も変えられない。


「……だから、数百年も続いたんですね」


「ああ。一人や二人の良心で覆せる仕組みではない。教会は——制度を守る制度を作った。人を殺す仕組みを守るために、良心を殺す仕組みを作った」


 カインの声に、冷たい怒りが滲んでいた。感情を爆発させるタイプではない。この男の怒りは——氷のように冷たく、静かに燃えている。


 リーリエは粛清の記録を丁寧に畳んだ。薄い羊皮紙。断片的な記録。しかしここに——消された良心の証拠がある。


「カインさん。今日はもうやめましょう」



 カインが茶を淹れてくれた。苦い薬草茶。けれど今夜は、その苦みが慰めのように感じられた。苦い現実を見つめた後の、正直な味。

 カインが顔を上げた。意外そうな顔。いつもはリーリエが「もう少し」と言い、カインが「やめろ」と言う側なのに——今日は逆だった。


「……お前が言うのか」


「はい。今日は——少し、重すぎました。明日また続けます」


 正直な言葉だった。リーリエの心は限界に近かった。歴代聖女の記録、改竄の証拠、そして今日の粛清の記録——胸の中が重い物で満杯になっている。


 カインは頷いた。


「なら俺も——やめるか」


 立ち上がりかけて——カインが止まった。


「今日はもうやめろ、と俺が言うべきだったな」


「……私が先に言っちゃいましたね」


「ああ」


 カインの口元が——ほんの僅かに、緩んだ。


「なら——俺も付き合おう。休むのに」


 不器用な言い方。「一緒に休もう」と素直に言えない男。けれどリーリエには伝わった。一人で重さを抱えるな、ということ。


「暖炉の前で温かいものでも飲みますか」


「……ああ」


 二人で書斎を出た。廊下に出ると、冬の冷気が頬を撫でた。リーリエの息が白い。


 暖炉の前。リュカが茶を淹れてくれた。


 温かい。


 記録の重さは消えていない。粛清された七人の良心。消された五人の聖女。書き換えられた十七人以上の記録。


 けれど——今夜は、ここまで。


 明日、また読み解く。


 温かい茶を両手で包みながら、リーリエは暖炉の炎を見つめた。炎が揺れている。小さな炎。


 この炎のように——声を上げた人々がいた。そしてその炎は消された。


 けれど——カインが、灰の中から記録を拾い上げた。


 消されたはずの声が、今——リーリエの手に届いている。



 粛清された七人の良心。その記録は断片的で、不完全で、けれど——それだけに生々しかった。完璧に消されなかったということは、消す側も——どこかで後ろめたさを感じていたのかもしれない。


 暖炉の火が小さくなっていた。薪が灰に変わりつつある。リーリエは暖炉を見つめた。この火のように——声を上げた人々の命も、灰に変わった。けれど灰の中にも——熱は残る。カインが拾い上げた記録の中に。

 それを——無駄にはしない。


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