怒り
怒り。
それは、リーリエがこれまで感じたことのない感情だった。
記録の調査を終え、リーリエは書斎を出た。廊下を歩き、城の西翼にある小さな窓際に立った。冬の空が、鉛色に広がっている。窓硝子が冷たい。そこに掌を押し当てると、指先から体温が奪われていく。
拳を——握りしめていた。
拳を握りしめていた。気づけば両手が固く握られていた。爪が掌に食い込むほどに。指の関節が白くなっている。この熱い感情の名前を、リーリエはもう知っていた。
気づけば、両手が固く握られていた。爪が掌に食い込むほどに。指の関節が白くなっている。
「許せない」
声が出ていた。
小さな声。囁くような。けれどその中に——熱があった。リーリエの声に熱が宿ることは、魔王城に来てからも滅多になかった。穏やかで、淡々として、抑揚の少ない声。それがリーリエの声だった。
今は——違う。
死にたがりだった。
かつてのリーリエは、世界に対して何も感じていなかった。疲れた。もういい。それだけだった。怒りという感情は——そもそも持ち合わせがなかった。怒るためにはエネルギーが必要で、リーリエにはそのエネルギーすら残っていなかった。教会で苦痛に耐え続けた日々は、感情を凍結させた。苦しみも、悲しみも、怒りも——全てを凍らせて、「もういいです」と微笑む少女を作り上げた。
しかし今——怒っている。
歴代聖女たちの記録を読んだ。名前を奪われた少女。逃げて連れ戻された聖女。苦しみながら死んだ人々の記録が「崇高な犠牲」に書き換えられていた。声を上げた司祭が消された。教会の中の良心が、組織的に踏みにじられてきた。
許せない。
この感情の正体を——リーリエは理解していた。これは自分のための怒りではない。リーリエ自身が教会にされたことへの怒りではない。声を奪われた歴代聖女たちのための怒り。名前を消され、苦しみを隠され、存在をなかったことにされた人々への——義憤。
他者のために怒ることができるということは——他者のことを思えるということだ。
凍結していたはずの感情が、確実に溶けている。氷が割れるように。ひび割れの中から、熱が漏れ出すように。
窓の外で、鳥が飛んでいった。灰色の空を横切る黒い影。冬を越えようとしている鳥。
「リーリエ」
背後から、低い声がした。
振り返ると——カインが立っていた。黒い外套。無愛想な顔。廊下の薄暗さの中で、深紅の瞳だけが鮮やかに浮かんでいる。リーリエを——まっすぐに見ていた。
カインはリーリエの拳を見た。握りしめられた小さな拳。白くなった指。爪が食い込んだ掌。
何かを——確認するように。その表情に、微かな変化があった。驚きとも、安堵ともつかない変化。
「お前……」
「……私、怒ってます」
リーリエは自分でも驚いていた。この感情を言語化できたことに。怒り。その一言が、これほど明確に自分の中から出てきたことに。喉の奥から、胸の奥から、腹の底から——湧き上がってくる熱。
「怒ってます。あの人たちの記録を読んで——許せないと思いました。教会が、聖女たちの声を消したことが。苦しみを嘘で塗り替えたことが。名前すら残さなかったことが。声を上げた人を消したことが」
リーリエの声は震えていなかった。静かで、明瞭で、芯が通っていた。怒りに我を忘れているのではない。冷静に——怒っている。
カインの表情が——変わった。
微かに。ほんの僅かに。唇の端が——上がった。
笑み——と呼ぶには小さすぎる変化。けれどリーリエにはわかった。カインが、笑った。五百年を生きた男の顔に、安堵の光が差した。
「ああ。——それでいい」
短い言葉。けれどその声には——安堵が満ちていた。温かく、深い安堵。水を得た大地のような。
「怒れるということは——諦めていないということだ」
リーリエは——はっとした。
そうだ。怒るためには、「こうあるべきだ」という理想が必要だ。「こんなことは間違っている」と思うためには、「正しい状態」を信じていなければならない。世界に対して「変わるべきだ」と思えなければ、怒りは生まれない。
かつてのリーリエにはそれがなかった。正しいも間違いもなかった。ただ疲れて、諦めて、全てを受け入れていた。世界がどうなろうと関係なかった。自分が生きようが死のうが、どちらでもよかった。
今は違う。
怒りはリーリエを壊すものではなかった。むしろ支えていた。骨組みのように。背骨のように。立ち上がるための力のように。
怒れる。許せないと思える。「こんなことは間違っている」と——言える。世界に対して「変わるべきだ」と思える。
「カインさん」
「何だ」
「私は——怒っていいんですよね」
その問いに、カインは少し意外そうな顔をした。リーリエが許可を求めていることに。怒ることに——許可がいると思っていることに。教会に育てられた少女の、悲しい癖。
「当然だ。誰かのために怒ることを——恥じる必要はない」
リーリエの拳が、ゆっくりと開いた。掌に、爪の跡が赤く残っていた。三日月型の小さな傷。
カインがそれを見て——眉を寄せた。
「……手を見せろ」
「え」
「爪の跡がついている。傷になる」
リーリエの手を取り、掌を確認する。大きな手が、小さな手を包み込む。カインの指が、リーリエの掌の爪跡を丁寧になぞった。血は出ていない。けれど赤い跡がくっきりと残っている。
「……大丈夫ですよ、これくらい」
「これくらいも何も——」
カインは不機嫌そうに言いかけて、止まった。自分が何をしているのか気づいたように——リーリエの手を、そっと離した。耳の先が僅かに赤い。
「……次は、拳を握るなら布でも握れ」
「はい」
リーリエは小さく笑った。怒りの中にも——この人がいる。不器用で、過保護で、心配性で。怒りの爪跡すら見逃さない人が。
怒りは消えていなかった。
けれどその怒りは——リーリエを壊すものではなかった。むしろ——支えていた。骨組みのように。背骨のように。立ち上がるための力のように。
歴代聖女たちの声を聞いた。その声が消されたことに怒れる自分がいる。それは——自分の中に、まだ火が残っているということだ。消えかけた火。けれど——確かに、燃えている。
凍結は——溶けている。
確実に。
リーリエは窓の外を見た。鉛色の空。その向こうに——何があるのかは、まだわからない。
けれど——怒りの先に、何かがある。
窓の外で鳥が飛んでいった。灰色の空を横切る黒い影。冬を越えようとしている鳥。リーリエもまた——冬を越えようとしていた。感情の冬を。凍結の季節を。怒りという熱が、春の始まりを告げていた。
それを探しに行く力が、今の自分にはあった。




