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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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連鎖を終わらせる

 一日の休息を挟んで——リーリエは書斎に戻った。


 テーブルの上には整理された記録の束。歴代聖女の記録、教会の改竄の証拠、テレジアの研究ノート。そして——炉を通じて聞いた歴代聖女たちの声の記憶。それらが層を成して、リーリエの前に広がっている。


 リーリエは椅子に座り、背筋を伸ばした。目を閉じた。深く息を吸った。


 昨日まで読んだ記録が、頭の中で渦を巻いている。名前のない二代目聖女。逃げた聖女。改竄された記録。粛清された司祭。テレジアの数式。そして——歴代聖女たちの声。「生きたかった」。


 カインが向かいに座った。いつもの位置。いつもの姿勢。


 しばらく、沈黙が続いた。


 リーリエの中で——何かが形を成そうとしていた。歴代聖女の記録を読み、声を聞き、泣き崩れて、立ち上がった。怒りを覚えた。日常に癒された。テレジアの研究に希望を見た。初代聖女のメッセージを受け取った。


 その全ての過程で蓄積されたものが——今、一つの言葉になろうとしていた。


 リーリエは目を開けた。


「カインさん」


「……何だ」


「私は——この連鎖を、終わらせたい」


 静かな声だった。


 震えていない。迷いもない。リーリエの声は、澄んだ水のように透明で、けれど揺るがない。冬の泉のような声。冷たいのではなく——清冽な声。


 リーリエの手がテーブルの上で止まった。カインの視線がリーリエの髪に向けられていた一瞬を、見逃さなかった。銀灰色の髪。金色ではない銀灰色の。


 カインの手が——テーブルの上で、止まった。記録を持つ指が、動きを止めた。


「……今、何と言った」


「この連鎖を終わらせたい、と言いました」


 リーリエはカインの目を見た。深紅の瞳をまっすぐに。逸らさずに。


「初代聖女が命を捧げて、炉に火を入れた。それ以来、五百年——聖女が命を削り続けている。二代目。三代目。四代目。名前を残された人も、消された人も。ずっと。名前を奪われた人もいる。逃げて連れ戻された人もいる。声を上げて消された人もいる。研究を続けて命が尽きた人もいる。そして——全員が、最後には『生きたかった』と思った」


 リーリエの声に力が籠もった。



 テーブルの上の資料に目を戻した。テレジアの数式が、蝋燭の光に照らされて浮かんでいる。計算に集中しなければ。胸の痛みは後で考える。今は——歴代聖女たちの遺志を繋ぐことが先だ。

「もうこれ以上——繰り返させたくない。私の次に聖女が生まれたとしても——いえ、もう生まれないかもしれない。けれどこの仕組みが存在し続ける限り、教会は次の犠牲を探すでしょう。それを——止めたい」


 カインは動かなかった。リーリエの言葉を——一語一語、聞いていた。


「死にたい、とは——もう思っていません」


 リーリエの唇が、僅かに震えた。この言葉を口にするのは——思ったよりも難しかった。「死にたい」はリーリエのアイデンティティの一部だった。崖から身を投げた少女。生きることに意味を見出せなかった少女。それがリーリエだった。


 けれど——今は違う。


「死にたくない、とも——まだ、うまく言えません。でも——変えたい。この仕組みを。誰かが犠牲になり続ける仕組みを。歴代聖女たちが望んだのと同じことを——私も望んでいます」


 「変えたい」。


 それは「死にたい」でもなく「死にたくない」でもない。能動的な意志。自分の外側にある世界を、自分の手で変えたいという——志向。


 かつてのリーリエにはなかったもの。世界に対して何も感じず、何も望まず、ただ疲れていたリーリエが——今、世界を変えたいと言っている。


 カインの表情が——変わった。


 驚き。それから——もっと深い感情。名前のつけにくい感情が、深紅の瞳に浮かんだ。五百年間、誰にも見せなかった種類の感情。


「……お前が、そう思うのか」


「はい」


「誰かに言われたからじゃなく——お前自身の意志で」


「はい。あの人たちの声を聞いて——自分の中から出てきた言葉です。誰に言われたのでもなく。ただ——あの人たちの『生きたかった』を聞いたら、自然に」



 カインの過去の重さを知っている。初代聖女を救えなかった五百年分の後悔。その傷の深さを知っているからこそ、触れることを恐れた。

 カインは——息を吐いた。長い息。五百年分の重荷を、少しだけ降ろしたような。


 そして、低い声で言った。


「俺が五百年探し続けた答えの断片が——お前の手に集まっている」


 リーリエが目を見開いた。


「初代聖女が遺した言葉。テレジアの計算。歴代聖女たちの記憶。そしてお前自身の、炉との繋がり。俺が五百年かけて一人で探し続けたものが——お前を通じて、一つに繋がろうとしている」


 カインの声は——感慨に満ちていた。重く、深く、けれどどこか——温かい。


「俺は——ずっと一人で探していた。初代聖女の遺志を継ぐ者を。聖女制度を終わらせる方法を。五百年間——見つからなかった。手がかりを掴んでは失い、希望を見ては絶たれ」


 深紅の瞳が——リーリエを見つめた。


「お前に会うまでは」


 リーリエの心臓が——跳ねた。


 カインの言葉は、告白ではなかった。感情の吐露でもなかった。もっと根源的な何か——五百年の旅の終着点が見えたことへの、静かな、深い認識。


「私に……できるでしょうか」


「わからん。だが——お前が『変えたい』と言うなら、俺はそれに賭ける。初代聖女の理念。テレジアの計算。お前の力。まだ足りないものがあるだろう。だが——道は見えかけている」


 リーリエは頷いた。



 窓の外で、枯れ木の枝が風に揺れる音が聞こえた。冬の風は冷たく、乾いている。リーリエの胸の中にある痛みと——似た冷たさだった。

 胸の奥が——温かかった。カインが「守るべき対象」としてではなく、「鍵を持つ者」としてリーリエを認めた。対等な関係への——一歩。


「では——初代聖女のメッセージの全容を探しましょう」


「ああ。道が開ける」


 二人の間に——新しい空気が流れた。


 共に一つの目的に向かう——同志。


 死にたがりの聖女が見つけた、生きる理由の欠片。


 まだ「生きたい」とは言えない。けれど——「変えたい」と言えた。



 リーリエは記録に目を落とした。文字が滲んで見えた。涙ではない。ただ焦点が合わなかっただけだ。そう自分に言い聞かせた。けれど胸の奥の痛みは——嘘をつかなかった。


 カインは優しい。守ってくれる。ここにいてくれる。でもその優しさは「リーリエ」に向けられているのか。それとも——「聖女」に向けられているのか。その問いが——氷の下に沈んだ石のように、見えるけれど手が届かない。

 それは——確かな一歩だった。


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