逃げた聖女
逃げた聖女の名は——残っていなかった。
しかし、記録は残っていた。教会の追跡記録が、皮肉にも逃走の軌跡を後世に伝えていた。追う側が書いた記録が、逃げた側の足跡を永遠に刻んでしまった。
リーリエは追跡記録を読み上げた。
「『聖暦二七八年、秋。第八期聖女、炉への帰還を拒否。夜半に聖堂を脱出。北方に向けて逃走を開始した模様。追跡班を編成し、夜明けとともに出発する』」
炉への帰還を拒否した。
それがどれほどの勇気を要したことか、リーリエにはわかった。結界の維持は聖女の「使命」であり、教会において炉への帰還を拒むことは——世界を滅ぼす大罪に等しい。聖女が炉に命を注がなければ結界は衰え、世界は災厄に飲まれる。その理屈で——聖女は逃げることを許されない。
逃げることは、世界を見捨てることだと教えられる。
けれど——逃げた。
「この人は……なぜ逃げたんでしょうか」
「追跡記録にはこうある」
カインが別の羊皮紙を広げた。この記録は状態が悪く、端が焼けている。焚書の際に一部が逃れた断片かもしれない。
「『第八期聖女は帰還の儀の前夜、侍女に次のように述べた。"私はまだ死にたくない。外の世界を見たい。春の花を見たい"——侍女はこれを上官に報告した』」
春の花を見たい。
それだけの願い。たったそれだけの——人間として当たり前の願い。花を見たい。外の空気を吸いたい。死にたくない。それだけのことが——「大罪」になる世界。
リーリエの呼吸が止まった。胸の奥が痛い。
「侍女が……報告したんですね」
「ああ。侍女を責めることはできない。教会の中では、聖女の『異変』を報告するのが義務だった。報告しなければ侍女自身が処罰される。だが結果として——逃亡は事前に察知された。教会は聖騎士団に出動を命じ、逃走経路を先回りした」
追跡記録は詳細だった。教会の組織力が——一人の少女を追うために全力で発動されている。
聖女は聖堂を脱出した後、北の山岳地帯に向かった。人の少ない山道を選び、数日間、一人で歩き続けた。食料は持ち出した乾パンだけ。水は山の湧き水。秋の山は冷え込み、夜は凍えるような寒さだったはずだ。聖女の華奢な身体で、山道を一人で歩くことがどれほど過酷か——リーリエには想像できた。
それでも——逃げ続けた。
追跡記録には、逃走経路の分析が事務的に記されていた。「聖女は主要街道を避け、山間の獣道を利用。訓練を受けていないにもかかわらず、追跡困難な経路を選択している」。教会の聖騎士が感心するほど、巧みな逃走だった。
けれど——一人の少女が、訓練された聖騎士団から逃げ切れるはずがない。
「三日目に追手が追いついた。聖騎士団の精鋭五名。聖女は山中の洞窟に隠れていたが、足跡から発見された」
カインの声は淡々としていた。だがその目は——暗い炎を宿していた。瞳の奥で、何かが燃えている。
リーリエは記録を読み続けた。連行の記述。
「『聖女を確保。帰還の途につく。聖女は抵抗したが、聖術による鎮静を施し、無事護送完了』」
追跡記録の文字は事務的なまでに冷静だった。一人の少女を追い詰める記録が、帳簿のように整然と並んでいる。その冷静さが——かえって恐ろしかった。
聖術による鎮静。
それが何を意味するのか——リーリエは知っていた。教会の聖術には、対象の意識を奪い、従順にさせる術がある。聖女候補の「教育」にも、かつては使われていた。リーリエ自身は受けたことがないが——その存在は知っている。意識を朦朧とさせ、抵抗する気力を奪う術。
一人の少女に、それが使われた。
「連れ戻された後の記録は……」
「ない」
カインが短く言った。
「連れ戻された後、この聖女がどう過ごしたかの記録は一切残っていない。わかっているのは——二度と逃亡を試みなかったということだけだ」
二度と逃げなかった。
その一文の裏に——何があったのか。記録にないこと自体が、恐怖を物語っていた。書かれていない空白が、どんな言葉よりも雄弁に——暴力を語っている。
リーリエは記録を閉じた。
静かに——息を吐いた。
胸の奥が重かった。鳩尾のあたりに、鉛を飲み込んだような感覚がある。呼吸をしているのに、空気が肺に入っていかないような。
「この人は——私と同じだったのかもしれない」
リーリエは窓の外を見た。魔王城の窓から見える冬の空。灰色の雲が低く垂れ込めている。
「逃げたかったんじゃなくて——生きたかった。春の花を見たかった。ただ、それだけのことが許されなかった」
リーリエ自身は——崖から身を投げた。生きたかったのではなく、苦痛から逃れたかった。
しかしこの聖女は違った。生きたかった。外の世界を見たかった。春の花を——。
その願いすら、潰された。
「……この人が見たかった花を」
リーリエの声が、微かに揺れた。
「私は見ることができている。魔王城の庭に——花が咲いているのを、私は見ている。春ではないけれど——冬にも、小さな花が咲いていた。あの花を、この人にも見せたかった」
カインが——リーリエの横顔を見つめた。
リーリエの目に浮かんでいるのは、涙ではなかった。もっと深い場所にある感情——痛みと、哀しみと、そして微かな——怒り。
「お前は逃げる必要はない」
カインが低い声で言った。
「俺がいる」
不器用な言葉。けれどリーリエの不安を、正面から受け止める宣言。お前を追う者がいるなら、俺が立ちはだかる。お前が逃げなくてもいいように、俺がここにいる。
リーリエはカインを見上げた。
深紅の瞳が、まっすぐにリーリエを見ていた。いつもの無愛想な顔。けれどその目には——揺るがない意志があった。
「……ありがとうございます」
リーリエは小さく頷いた。
「でも——カインさん。この人には、そう言ってくれる人がいなかったんです。逃げた先に、待っていてくれる人が。だから——連れ戻されて、二度と逃げなかった」
その言葉に、カインは何も返せなかった。
沈黙が部屋を満たした。
逃げた聖女の記録は、ここで途切れている。二度と逃げなかった聖女が、その後どれだけ生きたのかも——記録にはない。
ただ一つわかるのは——教会の公式記録から、彼女の存在が完全に抹消されたということだけだった。春の花を見たかった聖女は——歴史の中から、消えた。
春の花を見たかった聖女は、連れ戻された。聖術で意識を奪われ、再び炉の前に座らされた。その後の記録は——空白だ。空白そのものが、暴力の証拠だった。
逃げた聖女だけではない。教会内部から声を上げた者もまた、消されていた。次の記録が——それを証明する。




