消された名前
三日が過ぎた。
リーリエとカインは書斎に篭り、歴代聖女の記録を読み解き続けていた。テーブルの上には整理された羊皮紙の束が時系列に並べられ、教会の公式記録と照らし合わせるための対照表がリーリエの手で作られていた。細かな文字がびっしりと並ぶ対照表は、すでに三枚目に達している。
教会の公式記録では、歴代聖女は十二人。
初代聖女エルシェ。二代目。三代目。順に名前が——いや、名前ではない。「第○代聖女」という称号だけが並ぶ。個人名が記されているのは、初代のエルシェと、数名の聖女だけだった。残りは「聖女」という記号で片付けられている。人間ではなく、機能として記録されている。
しかし——カインの独自記録を照合すると、数が合わない。
「ここです」
リーリエが羊皮紙を指差した。爪が短く切り揃えられた指先が、黄ばんだ紙の上の一行を示す。
「教会の公式記録では、五代目聖女の後に六代目聖女が続いています。けれどカインさんの記録では——五代目と六代目の間に、三十年以上の空白がある」
「そうだ。五代目聖女が死んでから六代目が覚醒するまで、三十年以上かかっている。その間に結界が衰弱し、各地で災害が頻発した記録がある。北方で疫病が広がり、南方では海が荒れて港町が壊滅した。しかし教会の公式記録では——その期間は『五代目聖女の恩寵が長く続いた』と説明されている」
「恩寵が長く続いた——死んだ聖女の恩寵が、三十年も?」
「ありえない。聖女の力は死と同時に消える。結界の維持には継続的な燃料供給が必要だ。三十年間、燃料なしで結界が維持されるはずがない」
「つまり、五代目と六代目の間に——別の聖女がいた可能性がある」
「ある。俺が各地で集めた伝承には、名前のない聖女の存在を示唆する断片がいくつもあった。ある地方では『名前のない聖女が泉の底に眠っている』という伝承があり、別の地方では『悲しい聖女の歌』が子守唄として伝わっている」
リーリエは対照表に赤い印をつけた。五代目と六代目の間。そこに——記録から消された聖女がいた。
同様の空白が、他にもあった。
八代目と九代目の間。時間の空白が二十年以上。十代目の直後。公式記録では十代目の死後すぐに十一代目が覚醒したことになっているが、カインの記録では数年の空白がある。十一代目の前。そして——十一代目と十二代目の間。
五つの空白。五人の聖女が——歴史から抹消されていた。
「五人も……」
「消された聖女に共通点がある」
カインが一枚の羊皮紙を差し出した。各地で集めた断片的な証言を書き写したもの。カインの筆跡は堅く、無骨だった。けれど記録に対する敬意が、その丁寧さに表れている。
「五人のうち四人は——教会の記録が改竄される以前の地方の伝承に痕跡が残っていた。『教会に背いた聖女がいた』『逃げ出した聖女の話』『聖女の呪い』——名前は伝わっていない。だが共通しているのは、全員が何らかの形で聖女制度に抗ったということだ」
抗った。
逃亡。反抗。拒絶。自死未遂。
聖女という運命を受け入れることを拒み——声を上げた者たち。
そして——消された。
リーリエの胸が締め付けられた。
「この人たちは——抗ったから、消されたんですね」
「ああ。教会にとって、従わない聖女は存在してはならない。『聖女は崇高な使命を喜んで受け入れる』——その物語を維持するために、抗った者は最初からいなかったことにされた。名前を消し、記録を消し、伝承すら書き換えた。徹底的に」
カインの声は静かだったが、その奥に——五百年分の怒りが沈んでいた。長い年月をかけて醸成された怒り。爆発するのではなく、地層のように堆積した怒り。
リーリエは消された五人の聖女の痕跡を並べた。名前はない。顔もわからない。ただ「抗った」という事実だけが、断片として残っている。
逃亡した聖女。反抗した聖女。自ら命を絶とうとした聖女。炉への帰還を拒んだ聖女。
一人一人に——人生があった。恐怖があり、怒りがあり、悲しみがあった。好きな食べ物があり、嫌いな天気があり、夜空の星を見上げたこともあっただろう。それが全て、「なかったこと」にされている。
「……私も」
リーリエは呟いた。
「私が教会から逃げたとき——もし、カインさんに拾われなかったら。もし、ここで死んでいたら——私も、消されていたかもしれません。教会の記録から名前を消されて、『最後の聖女は崇高な使命を全うした』と書き換えられて」
カインの目が、一瞬——鋭くなった。深紅の瞳に、炎のような光が走った。
「お前は消させない」
短い一言。しかしその声には、有無を言わせぬ重みがあった。五百年間、記録を守り続けた男の声。
リーリエは小さく微笑んだ。その笑みは——少し、切なかった。
「ありがとうございます。でも——この五人には、そう言ってくれる人がいなかったんですね」
カインが——息を詰めた。
沈黙が落ちた。重い沈黙。テーブルの上の記録が、その重さを証明するように横たわっている。
リーリエは対照表に目を戻した。五つの空白。五人の消された聖女。そのうちの一人——逃亡を試みた聖女の記録が、カインの収集品の中に比較的詳しく残っていた。
「この人の記録が……一番詳しいですね」
「逃亡した聖女だ。各地の修道院に断片が散らばっていた。教会の追跡記録が、皮肉にも逃走経路を残している。追う側の記録が、逃げた側の足跡を保存してしまった」
「読みましょう」
リーリエは新しい記録の束を手に取った。
調査に夢中になっていると——テーブルの端に、温かい食事が置かれた。
リュカだった。
「お嬢、旦那様。夕飯っすよ。記録も大事ですけど、食べないと身体もちませんって」
リーリエは記録から目を上げた。湯気の立つスープと焼きたてのパン。リュカの料理は、いつだって温かい。どんなに重い話をしていても——この城の食卓には温もりがある。
「食べてから続きだ」
カインが言った。リーリエの手から記録を取り上げるように、自然に手が伸びた。
「……あ」
「食え」
「カインさんこそ。朝からずっと、何も召し上がっていませんよね」
カインの手が止まった。
「……気のせいだ」
「気のせいじゃありません。リュカさんが言ってましたよ」
リュカが素早く視線を逸らした。「いや俺なんも言ってないすけど」という小声が聞こえた。耳が少しピンと立っている。嘘が下手な従者。
二人は向かい合ってスープを飲んだ。温かい。身体の芯まで染み渡る。
消された五人の聖女の記録の続きは、食事の後に。
リーリエは次の記録に手を伸ばした。逃亡した聖女——その人は、何を思い、どこへ逃げようとしたのか。




