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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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二代目の聖女

 二代目聖女の記録は、薄い冊子だった。


 表紙はない。綴じ紐が朽ちかけた数枚の羊皮紙を、リーリエは慎重に広げた。文字は古い書体で、ところどころ虫食いがある。それでも——読めた。教会で叩き込まれた古代語の知識が、ここで役に立っている。


「初代聖女が炉に命を捧げてから十二年後——新たな適性者が発見された」


 カインが対面に座ったまま、低い声で補足した。蝋燭の光が深紅の瞳を揺らしている。


「初代聖女の力が衰え始め、結界が揺らいだ。教会は急いで次の適性者を探した。見つかったのは——辺境の村の、八つの少女だった」


 八歳。


 リーリエの手が、微かに震えた。


 記録には簡潔に書かれていた。「辺境のラウシェン村にて適性者を確認。聖女候補として教会に引き取る」。それだけ。少女の名前は——なかった。村の名前は残っているのに、少女自身の名前は——どこにもない。


 八歳。リーリエは息を呑んだ。八つの子供が親から引き離され、名前を奪われた。リーリエが教会に引き取られたのは十二歳。四年の差が、どれほどの意味を持つか。


「名前が……ありません」


「ない。二代目聖女は記録上、ただ『二代目聖女』としか呼ばれていない」


 リーリエは冊子の頁を繰った。引き取られた後の教育課程が記されている。聖典の暗唱。祈りの作法。炉の前での瞑想訓練。起床から就寝までの日課表が律儀に記されており、その隙間のなさに——リーリエは息が詰まった。遊ぶ時間がない。友人と過ごす時間がない。八歳の少女に課された日課は——およそ子供のものではなかった。


 リーリエ自身も十二歳で教会に引き取られた。けれどリーリエには——最初の数年間、友人がいた。一緒に笑い、一緒に泣き、聖典を暗唱しながら舌を出し合うような、ささやかな日常があった。


 この少女には——それすらなかったのかもしれない。


「この子は……自分が何をさせられているのか、わかっていたんでしょうか」


「わかっていなかっただろう。記録には『聖女候補は従順で、教えに忠実であった』と書かれている。従順だったんじゃない。何も知らされていなかっただけだ」


 カインの声に、怒りが滲んだ。普段は感情を押し殺す男の声が——低く、硬くなっていた。五百年の間にカインが読んだ記録は、このような記述で満ちていたのだろう。怒りを抑え込むことに慣れてしまうほどに。


 記録は続く。十歳で聖女として正式に覚醒。覚醒の儀式の描写は簡素だった。「聖女の紋章が顕現し、炉との接続が確認された」。ただそれだけ。十歳の少女の身体に何が起きたのか、苦痛があったのか——記録は何も語らない。数字だけが並んでいる。炉の出力値。結界の安定度。少女の名前ではなく、少女の身体が生み出すエネルギーの量。


 リーリエは自分の左胸に手を当てた。聖女の紋章が、服の下で微かに脈打っている。覚醒の瞬間を思い出す。十五歳。全身を灼かれるような痛み。骨の髄まで火が通るような感覚。声にならない悲鳴。世界が白く焼けた。


 あれが——十歳の子供に降りかかったのだ。


「覚醒後の記録は……ほとんどありませんね」


「残っているのは炉の出力記録だけだ。二代目聖女の命がどれだけ結界に消費されたか。数字だけが残っている」


 数字。


 一人の少女の命が、数字に還元されている。名前もない。顔もわからない。ただ「炉の出力」として記録された命。出力値が上がった年、下がった年。それだけが——この少女が生きた証。


「この子の本当の名前は……」


「消されている。教会の記録にも、村の記録にも残っていない。俺も探したが——ラウシェン村はもう存在しない。二百年前に廃村になっている」


 村ごと消えていた。名前を知る者は、もういない。


 カインの拳が、テーブルの上で握りしめられていた。手の甲に浮き出た血管が、怒りを物語っている。


 リーリエの手が震えた。


 名前を奪われた少女。家族から引き離され、意味もわからないまま炉に送られ、短い生涯を終えた少女。「聖女」という称号だけが残り、本人は——消えた。


「この人にも——名前があったはずです。好きなものがあって、嫌いなものがあって、笑ったり泣いたりしたはずです。それが全部——『聖女』の一言で塗り潰されている」


 リーリエの声が、かすかに掠れた。


 カインが記録を読む手を止めた。リーリエを見た。深紅の瞳が——リーリエの表情を、静かに読み取っている。


「……今日はここまでにするか」


 静かな提案。強制ではない。リーリエの限界を見極めた上での、選択の提示。


 リーリエは首を横に振った。


「いいえ——続けます」


 震える手で、次の頁を開いた。


「この子の声を聞けるのは——もう、記録しかないんです。だから、読みます」


 カインは何も言わなかった。ただ——リーリエの意志を、受け入れた。


 蝋燭の炎が揺れた。二代目聖女の記録は、あと数頁で終わる。八歳で連れてこられ、十歳で覚醒し——十三歳で、命が尽きた。


 五年。


 たった五年の聖女としての生涯。その全てが、名前のない数字として教会に記録されていた。十三歳の少女が——たった一行の「炉の出力停止」で片付けられている。


 リーリエは最後の頁を閉じた。


 指先が冷たかった。部屋の中は暖炉で温められているはずなのに——身体の芯が冷えていた。記録の冷たさが心臓へと伝わっていく。


 指先が冷たかった。部屋の中は暖炉で温められているはずなのに——身体の芯が、冷えていた。記録の冷たさが、指先から心臓へと伝わっていくようだった。


 カインが黙って立ち上がり、暖炉に薪を足した。炎が大きくなる。部屋が明るくなる。パチパチと薪が爆ぜる音が、沈黙を埋めた。


 それから——カインはリーリエの隣に戻り、震える手に触れた。大きな手が、リーリエの小さな手を包んだ。何も言わず。ただ、温もりだけを渡すように。冷え切った指先に、カインの体温が伝わってくる。


「……二代目だけではない」


 カインが低く言った。


「歴代の聖女たちに——教会が隠した記録がある。次を読むか、それとも——」


「読みます」


 リーリエの声は、もう震えていなかった。


 冷たい手を、カインの温もりで包まれたまま——リーリエは次の箱に手を伸ばした。


 二代目聖女。名前のない少女。


 彼女の短い生涯を——リーリエは胸に刻んだ。忘れない。忘れさせない。



 二代目聖女の記録は、たった数枚の羊皮紙だった。一人の人間の生涯が——これだけの紙に収まってしまう。名前すらない。好きな食べ物も、嫌いな天気も、夢見たことも——何も残っていない。残ったのは数字だけ。炉の出力値だけ。

 この先にある記録が、もっと重いものであることは——わかっていた。


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