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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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記録の箱

 封じられた部屋の扉が、重い音を立てて開いた。


 リーリエは入口に立ち、息を呑んだ。


 部屋の中は——箱で埋め尽くされていた。木箱、革箱、布に包まれた束。床から天井まで積み上げられた記録の山が、薄暗い室内を迷宮のように変えている。埃の匂い。古い紙の匂い。数百年の時間が凝縮されたような、重く乾いた空気が、リーリエの肌を撫でた。


「これが——全部ですか」


 リーリエの声が、箱の壁に吸い込まれた。


 カインは部屋の奥に立っていた。黒い外套の裾が箱の角に触れている。深紅の瞳が、積み上げられた記録を無感情に見渡した。


「五百年かけて集めた。教会が消した記録、各地に散逸した断片、民間の伝承に紛れ込んだ証言——教会は聖女の記録を組織的に管理し、都合の悪いものを消してきた。だが、全てを消すことはできなかった」


 五百年。


 その言葉の重さを、リーリエは噛みしめた。五百年間、たった一人で、消された記録を探し続けた。初代聖女を救えなかった男が、次の聖女を救うために。廃墟を掘り、古い図書館の奥を漁り、壁の裏に隠された文書を見つけ出す——気の遠くなるような作業を、この男は五百年にわたって続けてきた。


 箱の一つに手を触れた。木肌が乾いている。角が摩耗し、蓋の留め金が錆びついていた。この箱を手に入れたのが百年前なのか、三百年前なのか——カインにしかわからない。


 リュカが箱を運び出し始めた。


「いやー、旦那様がこの部屋の存在を教えてくれたの、つい最近っすよ。五十年仕えてて初めて見ました、この量」


 軽口を叩きながらも、リュカの動きは手際がいい。箱を隣の書斎に次々と運んでいく。栗色の髪が作業のたびに揺れる。軽い口調とは裏腹に、箱の扱いは丁寧だった。中身が何であるか——リュカもわかっているのだろう。


 リーリエも手伝おうとしたが、カインに止められた。


「重い。お前は待っていろ」


「私だってこのくらい——」


「身体に障る」


 短い言葉。けれどその声には、いつもの過保護が滲んでいた。リーリエは小さく息を吐いた。言い返しても無駄だということは、もう知っている。この男は譲らない。リーリエの身体のことになると、梃子でも動かない。



 箱の木肌に触れた。乾いている。角が摩耗し蓋の留め金が錆びついている。この箱を手に入れたのが百年前なのか三百年前なのか——カインにしかわからない。けれどその全てに、カインの五百年が詰まっている。

 五百年。その言葉の重さを、リーリエは改めて噛みしめた。消された記録を探し続けた五百年。初代聖女を救えなかった男が、次の聖女を救うために。


「……では、運んでいただいた分から整理を始めますね」


 書斎の大きなテーブルに、最初の箱が置かれた。蓋を開ける。中には黄ばんだ羊皮紙、綴じ紐の緩んだ冊子、墨が薄れかけた書簡が詰まっていた。紙の端が朽ちかけている。指先で触れると、乾いた繊維がぱらりと崩れた。


 リーリエは丁寧に一枚ずつ取り出し、時系列に並べ始めた。教会の古代語で書かれた文書もあったが、リーリエは教会育ちだ。十二歳から五年間、聖典の暗唱と古代語の読解を叩き込まれた。まさか——教会の嘘を暴くためにその知識を使う日が来るとは思わなかったけれど。


「カインさん、これは教会の公式記録ですね。歴代聖女の名簿……十二人の名前が記されています」


「公式にはな。十二人——それが教会の発表だ」


 カインがテーブルの反対側に座った。別の箱から取り出した記録を広げる。カインの手は大きい。けれど記録を扱う指先は繊細だった。朽ちかけた紙を傷つけないよう、慎重に開いていく。五百年かけて集めた記録に対する敬意が、その所作に現れていた。


「しかし、俺が集めた記録では——少なくとも十七人の聖女がいた痕跡がある」


 十二人と十七人。


 五人の差。五人の聖女が——歴史から消されている。


 リーリエの指先が、羊皮紙の上で止まった。


「五人は……どこに消えたんですか」


「それをこれから読み解く」


 カインの声は淡々としていた。けれどリーリエにはわかる。この男が五百年かけて集めた記録を、今——初めて他者と共に読み解こうとしている。一人で背負ってきた重荷を、分かち合おうとしている。


 それは些細なことに見えて——途方もない変化だった。


 五百年間、カインは一人だった。リュカという従者がいても、記録の中身を共有する相手はいなかった。この膨大な記録を一人で読み、一人で分析し、一人で怒り、一人で悼んできた。


 今は——二人だ。


 テーブルの上に記録を広げ、公式記録と独自記録を照らし合わせる。リーリエが古代語を読み、カインが背景を補足する。時折、記録の意味について議論する。一人では見落とす点を、もう一人が拾い上げる。



 蝋燭の灯りの下で、二人の影がテーブルの上で重なっていた。一人ではなくなったという事実が、影の重なりの中に可視化されていた。

 夜が更けていった。


 蝋燭の灯りの下で、二人は記録を読み続けた。リュカが茶を淹れて持ってきては去り、暖炉に薪を足しては去った。窓の外は真っ暗で、冬の風が石壁を叩く音だけが聞こえた。


 リーリエが記録に没頭していると——肩に、温もりが降りた。


 毛布だった。


 カインが、いつの間にかリーリエの肩に毛布をかけていた。席を立った気配すらなかった。いつ動いたのかわからない。五百年の修練で身についた、音のない動き。


「夜が長くなる。身体を冷やすな」


 低い声。視線は記録に落としたまま。まるで何でもないことのように。毛布をかけることが、呼吸と同じくらい自然なことであるかのように。


 リーリエは毛布の端を引き寄せた。温かい。カインの体温が、ほんのり残っている。毛布の繊維に染みた温もりが、リーリエの肩から背中に伝わっていく。


「……ありがとうございます」


 カインは答えなかった。ただ、次の記録に手を伸ばした。


 その横顔を、リーリエはしばらく見つめていた。蝋燭の光に照らされた、無愛想な横顔。鋭い輪郭。長い前髪が片目にかかっている。けれどその手が、たった今——毛布をかけてくれた手。


 五百年の孤独を過ごした手。記録を集め続けた手。そして今——リーリエを温める手。


 記録の山は膨大だった。


 だが——一人ではない。


 リーリエは毛布に包まりながら、次の羊皮紙を手に取った。



 記録の山は膨大だった。けれど一つ一つの箱が、カインの五百年の旅の足跡だ。東の砂漠で見つけた記録。北の凍土の修道院から持ち出した文書。海を渡った先の古代図書館で発見した断片。カインの五百年が——ここに凝縮されている。

 歴代聖女の記録が語る真実。その最初の頁が、今——開かれようとしていた。


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