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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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封じられた部屋

 封じられた部屋は、魔王城の最奥にあった。


 長い廊下を歩く。カインが先を行き、リーリエが後に続く。壁に掛けられた燭台の火が、二人の影を長く引く。


 廊下の突き当たりに——扉があった。


 他の部屋の扉とは明らかに違う。黒鉄の重厚な扉に、複雑な紋章が刻まれている。封印の術式だと、リーリエにはわかった。カインの魔力で施された、強力な封印。


 カインは扉の前に立ち——一瞬だけ、動きを止めた。


「……ここは。数百年、誰にも見せなかった」


 低い声。背中がリーリエに向いている。その背中が——僅かに強張っている。


「リュカにも見せていない。レオンハルトにも。誰にも」


 カインの左手が——扉に触れた。手袋を外した素手。左手の甲に刻まれた古い紋章の痕跡が、扉の紋章と呼応するように微かに光った。


 封印が——解けた。


 紋章の光が消え、黒鉄の扉が重い音を立てて内側に開いた。


 埃の匂い。数百年分の静寂の匂い。


 カインが一歩踏み入れた。リーリエも続いた。


 部屋は——小さかった。


 魔王城の他の部屋に比べれば、驚くほど。書庫の一角ほどの広さしかない。窓はなく、壁は灰色の石。質素で、飾り気がない。


 だがその中に——丁寧に保管されたものがあった。


 部屋の中央に、木の台座。その上に——一冊の革装丁の日記。古びているが、状態は良い。五百年間、カインが手入れをし続けたのだろう。


 台座の横に、木箱がいくつか。蓋が閉じられ、紋章で封印されている。


 壁際の棚には——道具が並んでいる。コンパス。定規。インク壺。筆記具。古代文字が刻まれた金属の円盤。全て——研究に使われたもの。


 そして壁に——一枚の手紙が、額装されて掛けられていた。


「……これが——エルシェの遺品だ」


 カインの声は低く、静かだった。


 リーリエは息を呑んだ。


 五百年間。この部屋に、カインは一人でエルシェの遺品を守ってきた。誰にも見せず、誰にも触れさせず。


「日記は——エルシェの日常が記されている。研究の覚書も混じっている」


 カインが革装丁の日記を手に取り、リーリエに渡した。


 リーリエは慎重に受け取った。古い革の感触。ページを開くと——丸みを帯びた、柔らかい筆跡が目に入った。エルシェの字。


『今日は天気がよかった。カインさんが訓練場で木剣を振っているのを窓から見ていたら、転んだ。笑ってしまった。あとで怒られるかしら。』


 日常の一節だった。何気ない言葉。五百年前の少女の、平凡な一日。


 リーリエの目が——潤んだ。


 この字を書いた人は、もういない。日記に笑顔を残した人は、炉の中に消えた。


「木箱の中には——炉の設計に使った研究資料がある。俺にはほとんど理解できなかったが、お前なら——いや、一緒に読み解けるかもしれない」


 カインが木箱の一つを開いた。中には羊皮紙の束。古代文字と数式が所狭しと書かれている。エルシェの研究ノート。


 そして——壁の手紙。


「あれが——最後に遺したものだ」


 カインの声が——掠れた。


 リーリエは壁に歩み寄った。額装された一枚の手紙。薄い羊皮紙に、丁寧な筆跡。日記より少し——震えている。書いたとき、手が震えていたのだろう。


 リーリエは手紙を読んだ。


『カインへ。


 あなたが見つけてくれると信じています。


 私はこの炉に、別の可能性を残しました。一つの強い炎ではなく、万の小さな灯火で動く仕組み。まだ完成していないけれど、種は炉の中に蒔きました。


 いつか——あなたが、あるいはあなたの大切な人が、その種を見つけてくれますように。


 同じ運命を辿る子が、もう現れませんように。


 ごめんね。待てなくて。


 でも——あなたに出会えてよかった。


 それだけは、嘘じゃないから。


 エルシェ』


 リーリエは手紙を読み終え——しばらく、動けなかった。


 涙が頬を伝った。拭わなかった。拭う必要がなかった。


 エルシェ。


 五百年前の少女。カインを愛し、世界を愛し、自分の命を差し出して——それでもなお、未来を諦めなかった人。


「別の可能性を残した」。炉の中に種を蒔いた。いつか誰かが見つけてくれると信じて。


 その「誰か」を——五百年間、カインは探し続けた。


「……この人は」


 リーリエの声は震えていた。


「あなたのことも——未来のことも、全部考えていたんですね」


 カインは壁際に立ち、手紙を見つめていた。五百年間、何千回と読んだであろう手紙。一字一句が——カインの記憶に刻まれている。


「ああ。——だから俺は、止められなかった」


 低い声。けれど——諦めの声ではなかった。


「エルシェは最後まで——未来を信じていた。自分がいなくなっても、誰かが続きを見つけてくれると。だから——俺は、諦められなかった」


 カインの手が——壁の手紙に触れた。額縁のガラス越しに、エルシェの筆跡をなぞるように。


 リーリエは手紙の前に立ったまま、呼吸を整えた。涙を袖で拭った。


「……カインさん」


「何だ」


「エルシェさんが残した『別の可能性』——見つけましょう。一緒に」


 カインがリーリエを見た。


「研究資料がここにある。手紙には『炉の中に種を蒔いた』とある。私は——聖女として、炉と繋がることができます。エルシェさんが残したものに、私なら触れられるかもしれない」


 リーリエの声は——確かだった。涙を流した直後なのに、声は震えていなかった。


「あなた一人で探し続ける必要はもうありません。私も——一緒に探します」


 カインは——長い間、リーリエを見つめていた。


 銀灰色の髪。薄い青紫の瞳。涙の跡が頬に残っている。けれどその目には——光がある。虚ろではない。確かな意志の光。


 かつてエルシェの目に宿っていたのと同じ——いや、違う光。エルシェのものとは別の、リーリエだけの光。


 カインは——気づいただろうか。今この瞬間、自分がリーリエを見ていることに。エルシェではなく。過去の影ではなく。今ここにいる、銀灰色の髪の少女を。


「……ああ」


 カインは頷いた。


「一緒に——探そう」


 封じられた部屋の中で、二人は並んで立っていた。


 エルシェの遺品に囲まれて。五百年の約束の中で。


 だが——これは終わりではなかった。始まりだった。


 第三の道への探索が、ここから始まる。


 エルシェの手紙の最後の一行が、燭台の光に照らされていた。


『あなたに出会えてよかった。それだけは、嘘じゃないから。』


 五百年の時を越えた言葉が——二人を見守っている。


 リーリエはカインの隣に立ち、研究資料の木箱を見つめた。


 ここから——新しい物語が始まる。


 「魔王の真名」は明かされた。封じられた部屋は開かれた。五百年の秘密は、もう秘密ではない。


 次は——歴代聖女の声を聞く番だ。


 エルシェが炉に蒔いた種を——見つける番だ。


 リーリエは手紙にもう一度視線を落とし、小さく呟いた。


「……エルシェさん。あなたの願い、受け取りました」


 燭台の火が——微かに、揺れた。


 まるで——応えるように。


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