だから俺は
リーリエの涙は——静かだった。
声を上げて泣いたわけではない。嗚咽もなかった。ただ涙が、とめどなく頬を伝うだけ。カインの涙と同じ——凍結されていた感情が、少しだけ溶けた涙。
リーリエ自身、なぜ泣いているのかわからなかった。自分のために泣いているのか、カインのために泣いているのか、エルシェのために泣いているのか。全部かもしれない。五百年の物語を聞いて、その重さに——涙腺が耐えきれなかったのかもしれない。
カインはリーリエが泣き止むまで、何も言わなかった。黙って暖炉の火を見つめていた。慰めの言葉をかけることもなく。けれど——離れもしなかった。
しばらくして——リーリエは袖で目元を拭い、息を整えた。
「……すみません」
「謝るな。——続きがある」
カインの声は低かった。だが硬さの中に——覚悟がある。過去を全て語った。残るは——動機の告白。
「リーリエ」
カインがリーリエの名を呼んだ。いつもの「一瞬の間」はなかった。今夜だけは——真っ直ぐに、リーリエの名を呼んだ。
「崖の上でお前を見たとき——俺の中で、エルシェの姿が重なった」
正直な言葉だった。飾らない、剥き出しの。
「白い聖衣。聖女の紋章。炉に命を吸われて、疲れ果てた顔。——あの日のエルシェと、同じだった」
リーリエは黙って聞いていた。
「だからお前を拾った。二度と同じ過ちを繰り返さないために。——聖女を死なせないために」
カインの深紅の瞳がリーリエを見た。逸らさなかった。
「それが——俺の動機だ。お前をリーリエとして見ていたのか、聖女として見ていたのか。正直に言えば——最初は、聖女として見ていた。エルシェの代わりとして」
その言葉は——刃のように鋭かった。
優しさの裏にある残酷さ。カインの誠実さが、かえってリーリエを傷つける。
リーリエは——微かに、唇を噛んだ。
代わり。
エルシェの代わりとして拾われた。カインが自分を守る理由は、リーリエ個人への感情ではなく——五百年前に守れなかった聖女への贖罪。
わかっていた。
カインの目が「今ここにいない人」を見ていたとき、薄々感じていたことだ。あの名前のない痛みの正体が——今、明確な形を持った。
自分は——代替品なのかもしれない。
その考えがリーリエの胸を貫いた。痛い。だが——不思議なことに、怒りはなかった。
だってカインは——嘘をつかなかった。
誤魔化すことも、美化することもなく、正直に動機を告白した。それはカインにできる最大の誠実さだった。
「……ありがとうございます」
リーリエの声は——静かだった。
カインが僅かに身じろぎした。予想していた反応と違ったのかもしれない。怒り、悲しみ、失望——そのどれでもない、穏やかな声。
「話してくれて——ありがとうございます」
リーリエは杯を両手で包んだ。冷めた飲み物の残りが、手の中でゆるく揺れた。
「五百年の間——ずっと一人で抱えてきたことを、私に話してくれた。それだけで——十分です」
嘘ではなかった。
痛みはある。「代替品」という棘は胸に刺さっている。だがそれ以上に——カインが全てを正直に語ってくれたことへの感謝が、リーリエの中で勝っていた。
カインは——しばらくリーリエを見つめていた。
深紅の瞳に浮かぶ感情は——複雑だった。リーリエの受容に戸惑っている。許されたことに対する困惑。そして——自分の動機が「贖罪」であることへの、自覚の痛み。
沈黙が流れた。重くはない。けれど軽くもない。二人の間に横たわる真実の重さそのものの沈黙。
その言葉が、書斎の空気に溶けていった。蝋燭の火が一つ、燃え尽きた。部屋が少しだけ暗くなった。けれど——不思議と、寒くはなかった。
やがて——カインが口を開いた。
「……腹は、減っていないか」
唐突だった。
過去の全てを語り、動機を告白し、五百年の秘密を曝け出した後で——「腹は減っていないか」。
リーリエは——一瞬、呆然とした。
そして——小さく、笑った。
目が笑っていない穏やかな笑みではなかった。ふっと力が抜けたような——微かに目尻が下がる、本物に近い笑み。
「……少し。空いているかもしれません」
「そうか。リュカに何か作らせる」
カインが立ち上がった。書斎の扉に向かう。
その背中を見ながら、リーリエは思った。
この人は——不器用だ。五百年の過去を語り終えた後で、最初に出てくる言葉が「腹は減っていないか」。
でも——それがカインだ。
言葉で感情を伝えられない代わりに、行動で示す。食事を気にかけ、体調を心配し、毛布をかけ、頭に手を置く。全部——不器用な優しさ。
リーリエは長椅子に座ったまま、自分の胸に手を当てた。
痛みはまだある。「代替品かもしれない」という棘。カインが自分を見るとき、エルシェの影を見ているのではないかという不安。
でも——今は、それでいい。
カインは正直に語ってくれた。嘘をつかなかった。その誠実さに——リーリエは応えたい。
やがてカインが盆を持って戻ってきた。リュカが急いで用意した軽食——パンとチーズと温かいスープ。
「食え」
「いただきます」
二人は書斎で、深夜の食事をした。
パンを千切り、スープを啜り、チーズを齧る。何気ない所作。日常の延長。
だが——今夜を越えた二人の「日常」は、昨日までとは違う。
カインの過去を知った上での日常。五百年の重みを共有した上での、パンとスープ。
リーリエはスープの温かさを味わいながら——思った。
カインの動機は「贖罪」だった。
では——今は?
五百年前のエルシェへの贖罪で、今もカインは動いているのか。それとも——何か、別のものが芽生えているのか。
その問いは、まだ口にしなかった。
今は——早すぎる。
でも、いつか。いつか必ず——聞く。
「あなたは、私を見ているんですか」と。
その日が来るまで——リーリエはここにいる。カインの隣で。パンを食べて、スープを飲んで。
日常を、積み重ねる。
リーリエはスープの最後の一口を飲み干し、杯を置いた。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
カインがリーリエの空になった皿を無言で受け取り、盆に戻す。その何気ない仕草の中にも——不器用な優しさが滲んでいる。
リーリエはそれを見て——胸が温かくなった。
痛みは消えていない。でも——温かさも、確かにある。
リーリエは杯を膝の上に置いた。カインの語りを聞くたびに、自分の中で何かが変わっていく。凍結した感情の層が、一枚ずつ剥がれていく。
二つの感情を抱えたまま、リーリエは書斎の扉に向かった。今夜は——眠れるかもしれない。疲れていたから。身体も、心も。




