数百年の孤独
追放の後——数百年の旅が始まった。
カインの語りは、この部分だけ——圧縮されていた。五百年の歳月を、一夜の語りに収めることは不可能だ。だからカインは、断片を選んで語った。声は淡々としていた。感情を込めれば五百年分の重さに押し潰される。だから事実だけを、年表のように並べた。
リーリエは黙って聞いた。淡々とした言葉の行間に——語られない歳月の重さが、ずしりと横たわっていた。
「最初の百年は——ただ、歩いた」
あてもなく。行く場所もなく。帰るべき場所はもうなかった。カインの名は記録から消され、「魔王」の影だけが世界を彷徨っていた。
エルシェの遺した研究の断片を懐に入れ、世界の端から端まで歩いた。「別の方法」を探して。炉を動かす別の燃料を。一人の命に頼らない仕組みを。
図書館を訪ねた。魔法使いの隠れ家を探した。古代の遺跡を調べた。海を渡り、砂漠を越え、凍土を歩いた。
手がかりは——見つからなかった。
「百年目に——諦めかけた」
カインの声は淡々としていた。
「ある冬の夜、山の洞穴で一人座っていたとき——もう無理だと思った。百年探して何も見つからない。エルシェの遺した断片は、俺には理解できない。剣しか振れない男に、魔法工学の理論を解読することなど——」
カインは暖炉の火を見つめた。
「だがその夜——夢を見た。エルシェの夢だ。あいつが笑って言った。『あなたなら見つけてくれる。だから、もう少しだけ頑張って』と」
夢。ただの夢。エルシェの記憶が脳裏に浮かんだだけのこと。
だがカインはその夢で——立ち上がった。
「二百年目に、古い文献を見つけた。分散型燃料の理論の片鱗が記された、千年前の書物。だが肝心の部分が欠けていた」
「三百年目に、炉の構造を解析できる魔族の学者と出会った。だが学者は寿命で死に、研究は引き継げなかった」
「四百年目に——もう一つの手がかりを見つけた。歴代の聖女が炉との繋がりを通じて、何かを感じ取っていたという記録。初代聖女の意志が——炉の中に残っているかもしれないという可能性」
カインの語りは断片的だった。五百年の旅の、数カ所だけを照らす。
だがその断片の間に——膨大な孤独があった。
何十年も人と話さない時期があった。「魔王」として追われ、村を焼かれ、人々に恐れられた。助けを求めれば石を投げられ、名乗れば剣を向けられた。
カインの周囲には——誰もいなかった。
「人間の寿命を——何度も見送った」
百年。人間の寿命の三倍以上。その間、カインは一人で歩き続けた。雨の日も、雪の日も。足が棒のようになっても止まれなかった。止まれば、あの日の後悔に押し潰されるから。
カインの声が、一段低くなった。
カインの語りが進むにつれ、リーリエの手の中の杯が冷たくなっていった。飲み物はとうに冷めている。けれど杯を離す気にはなれなかった。何かを握っていたかった。
「たまに理解者がいた。カインの正体を知り、手を貸してくれる者が。だが——人間は、数十年で死ぬ。俺だけが残る。何度も。何度も」
理解者を見送る。新しい理解者に出会う。また見送る。それを繰り返すうちに——カインは、人と深く関わることをやめた。
関わっても、失うだけだから。
リーリエは——黙って聞いていた。
五百年の孤独の重さが、カインの語りの行間から滲み出している。言葉にされた部分より、されなかった部分の方がずっと大きい。
「そして——五百年目」
カインの声が——変わった。
低く、乾いていた声が——微かに、温度を帯びた。
「辺境を歩いていた。何の目的もなく——いや、あの日は確か、古い遺跡の調査の帰りだった。崖沿いの道を歩いていたとき——」
カインの目がリーリエを見た。
「崖の上に、少女が立っていた」
カインの声が——変わった。乾いていた声に、湿り気が混じった。唇が微かに震えている。
リーリエの心臓が——跳ねた。
「白い聖衣を着た少女。銀灰色の髪。風に煽られて——崖の縁に立っている。目が虚ろだった。この世の全てに疲れ果てた目で——空を見ていた」
リーリエは——自分の記憶を辿った。崖の上。冬の風。終わらない苦痛と、静かな諦念。もう十分だ、と思った。もう楽になりたい、と。
「少女が——一歩踏み出した。崖の向こうへ」
カインの声が——静かに震えた。
「俺は——走った。考えるより先に、身体が動いた。崖の縁に駆け寄り、手を伸ばした」
五百年前——炉の光の壁に阻まれた手。エルシェに届かなかった手。
その手が——。
その声を聞いた瞬間、カインの中で五百年が巻き戻った。光の壁に阻まれたあの日。届かなかった手。そして——今度は、届いた。
「今度は——届いた」
カインの声が——途切れた。喉が詰まったように。五百年前の光の壁と、崖の縁と、伸ばした手が——重なる。
リーリエの手首を掴んだ。落ちていく少女を引き上げた。力任せに——乱暴に。崖の縁に引き戻し、地面に引き倒し、その上に覆い被さるようにして。
息が荒かった。カインの息が。五百年ぶりに——心臓がこんなに激しく動いた。
少女が——目を開けた。薄い青紫の瞳が、カインを見た。
「……ありがとうございます。でも——助けなくてよかったのに」
その声を聞いた瞬間——カインの中で、何かが決まった。
「お前が死ぬと世界が終わる。だから俺の隣にいろ」
五百年前、エルシェに言えなかった言葉。止められなかった手。届かなかった声。
今度は——全部、間に合わせた。
カインの語りが——現在に戻った。
書斎の暖炉の前。深紅の瞳がリーリエを見つめている。
「だからお前を拾った。——それが、俺の過去の全てだ」
リーリエは——杯を膝の上に置いたまま、動けなかった。
第一話の崖の出会い。カインが自分の手を掴んだ瞬間。
あのとき——ただの偶然だと思っていた。たまたま通りかかった魔王が、たまたま聖女を拾った。それだけのことだと。
違った。
あの手は——五百年の重みを持っていた。
エルシェに届かなかった手が、五百年の時を越えて——リーリエに届いた。
リーリエの目に——涙が浮かんだ。
自分でも驚いた。泣かないつもりだったのに。感情を凍らせていたはずなのに。
一滴が頬を伝い——リーリエは慌てて袖で拭った。
「……すみません。泣かないって——言ったのに」
「いい」
カインの声は——穏やかだった。
「泣いていい。……お前は、泣いていいんだ」
カインの五百年が、今夜、リーリエの前に開かれた。孤独という名の長い長い道の全てが。そして——その道の先に、リーリエがいた。
その言葉に——リーリエの涙が、止まらなくなった。




