傷ついた人
一晩を経て——リーリエは、答えを持って朝を迎えた。
眠れない夜だった。ベッドの中で何度も寝返りを打ち、カインの言葉を反芻した。「二度と同じ過ちを繰り返さないために」。「聖女として見ていた」。「エルシェの代わりとして」。
痛い言葉だった。胸に刺さった棘は、一晩経っても抜けていない。
だが——朝日が窓から差し込んだとき、リーリエの中で一つの感情が固まった。
怒りでも、悲しみでも、失望でもない。
「——この人のそばにいたい」
それだけだった。
理由は整理できない。代替品かもしれない。贖罪の対象かもしれない。それでも——カインのそばにいたい。五百年の孤独を一人で背負ってきた人の隣に、いたい。
リーリエは顔を洗い、身支度を整え、書斎に向かった。
カインは——書斎にいた。
長椅子に座り、暖炉の残り火を見つめている。一晩中ここにいたのかもしれない。目の下に薄い隈がある。
「カインさん」
リーリエが声をかけると、カインが顔を上げた。
「……早いな」
「はい。——少し、お話ししたくて」
リーリエは向かいの長椅子に座った。朝日が窓から斜めに差し込み、書斎を暖かい光で満たしている。
リーリエは——カインの目を、真っ直ぐに見た。
「昨夜の話——一晩考えました」
カインの表情が僅かに強張った。告白の結果を聞く者の、緊張。
「あなたは——ずっと一人で、背負ってきたんですね」
リーリエの声は穏やかだった。
「エルシェさんを救えなかった後悔。教会に追放された怒り。五百年の孤独。全部——一人で」
カインは答えなかった。ただリーリエを見ていた。
「誰にも話せなかった。誰にも頼れなかった。それなのに——エルシェさんの遺言を守り続けた。別の方法を探し続けた。五百年もの間」
リーリエは息を吸った。
「あなたは——強い人だと思っていました。魔王として、誰も近寄れない、揺るがない人だと」
カインの眉が——僅かに動いた。
リーリエの胸に、小さな棘が刺さった。代替品。その言葉が胸の奥で非ざしく小さな音を立てた。けれどカインの誠実さに、リーリエは応えたいと思った。
「でも——違いました」
リーリエの声が——柔らかくなった。
「あなたは、傷ついた一人の人間です。カインさん。——五百年も、傷ついたまま、歩き続けてきた人」
カインの唇が——動いた。
「……別に、大したことじゃない」
「嘘です」
リーリエの声は穏やかだった。けれど——揺るがなかった。
「嘘です。大したことじゃないなんて。五百年もの間、一人で背負って——大したことじゃないはずがない」
カインが——目を逸らした。
リーリエの視線から逃げるように。けれど書斎には逃げ場がない。
「あなたはいつもそうです。心配しているのに『お前のためじゃない』と言い、守りたいのに『世界のためだ』と言い、痛いのに『大したことじゃない』と言う」
リーリエの言葉が、一つずつ、カインの仮面を剥がしていく。
「でも——私にはわかります。だって——」
リーリエは自分の胸に手を当てた。
「私も同じだったから。痛いのに痛くないふりをして。辛いのに辛くないふりをして。——感情を凍らせて、何も感じないふりをしていました」
カインが——リーリエを見た。
「あなたと私は——同じです。凍らせ方が違うだけで。あなたは強がりで凍らせて、私は諦めで凍らせた。でも——中身は同じ。痛みを抱えて、一人で耐えていた」
リーリエの目が——カインを捉えた。薄い青紫の瞳に、光がある。以前の虚ろさではない、確かな光。
「だから——お願いがあります」
「……何だ」
「もう——一人で背負わないでください」
カインの目が——揺れた。
「私がいます。リュカさんも、レオンハルトさんも、マリカさんも。——あなたはもう、一人じゃないんです」
リーリエの声は——震えていなかった。凍結した感情の氷の下から、確かな温度が滲み出している。
「あなたが何者であっても——初代聖騎士でも、魔王でも、傷ついた人間でも。私は——ここにいます」
カインは——長い間、黙っていた。
暖炉の残り火が微かに赤く光っている。朝日が書斎を暖めている。
やがて——カインが口を開いた。
温かいスープの湯気が、リーリエの頬を撫でた。野菜の甘みと、乳のまろやかさ。リュカの料理は、どんなときも温かい。
「……お前は」
「はい」
「変わったな」
リーリエは——少し、首を傾げた。
「崖の上で拾ったとき——お前は『助けなくてよかったのに』と言った。死にたがっていた。生きることに疲れ果てていた」
「はい」
「今——お前は、俺に『一人で背負うな』と言っている。他者を気にかけている。それは——」
カインの声が——少しだけ、柔らかくなった。
「変わった証拠だ」
リーリエは——一瞬、驚いた。そして——頷いた。
「……変わったんだと思います。あなたのおかげで」
「俺は何もしていない」
「嘘です」
リーリエの声に——微かな笑みが混じった。
「食べろ、寝ろ、死ぬなって——毎日言ってくれたじゃないですか。それが——全部、私を変えたんです」
カインは——視線を逸らした。
耳の先が——微かに赤い。
「……知らん」
リーリエは——そのカインの横顔を見て、小さく息をついた。
不器用な人。五百年経っても、照れると視線を逸らす人。
でも——この人の隣にいたいと、リーリエは思った。
理由が贖罪でも構わない。動機がエルシェへの償いでも構わない。今はまだ「代替品」かもしれない。
でも——いつか。
いつか、カインが自分を——リーリエとして見てくれる日が来るかもしれない。
その日を——待とう。
焦らず。静かに。カインの隣で。
朝日が書斎を暖めている。窓の外で鳥が歌っている。日常は——続いていく。
リーリエは立ち上がった。
「朝食に行きましょう。リュカさんが待っていると思います」
カインも立ち上がった。いつもより——少しだけ、動作が軽い。五百年分の秘密を誰かと共有したことで、肩の重さが僅かに減ったのかもしれない。
「……ああ。行くか」
二人は書斎を出て、朝食の広間に向かった。並んで歩く。以前は——カインが先を行き、リーリエが後をついていく距離感だった。
今は——横に並んでいる。
小さな変化。だが確かな変化。
リーリエはカインの横を歩きながら——思った。
この人の隣に、いよう。カインが自分を見てくれる日まで。たとえそれが——来なかったとしても。
この人の隣にいること自体が——リーリエにとっては、意味があるから。




