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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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崩れる声

 カインの涙は——長く続かなかった。


 五百年ぶりの涙は、堰を切ったように溢れ出したわけではなく、静かに、少しだけ流れて——止まった。感情が決壊する寸前で、カインは自分を取り戻した。数百年の孤独が鍛えた自制心が、完全な崩壊を許さなかった。


 だが——手は離さなかった。


 リーリエの両手がカインの手を包んでいる。カインの手がリーリエの手を握り返している。二人の手は重なったまま、長い時間が流れた。


 暖炉の火が小さくなっていく。


 リーリエはカインの横顔を見ていた。涙の跡が、暖炉の光に照らされて微かに光っている。深紅の瞳は伏せられ、唇は固く結ばれている。


 五百年。


 リーリエはその時間の重さを、初めて実感した。


 五百年間——この人は、この痛みを一人で抱えていた。語る相手もなく、泣く場所もなく。エルシェを失った悲しみを、誰にも見せずに。


 強さだと思っていた。カインの無愛想さも、近寄りがたい威圧感も、感情を見せない冷たさも——全て、強さの表れだと。


 違った。


 強さではなかった。凍結だった。


 リーリエにはわかる。自分も同じだったから。終わらない苦痛に耐えるために感情を凍らせた自分と、五百年の喪失に耐えるために感情を封じたカインは——同じだった。


 凍った人間同士が、暖炉の前で手を繋いでいる。


 暖炉の火がぱちりと音を立てた。その音で、リーリエは自分が息を止めていたことに気づいた。ゆっくり息を吐いた。白い息にはならない——室内は暖炉のおかげで温かい。けれど心の奥は、まだ冷えていた。


 滑稽かもしれない。お互いの手が冷たいのに、握り合っている。温め合おうとしているのに、温もりの出し方を忘れている。


 でも——温かかった。不思議と。凍った手同士でも、触れ合えば、少しだけ——温度が生まれる。


「……すまない」


 カインの声が、静かに書斎に落ちた。


「何をですか」


「取り乱した」


「取り乱してなんかいません」


 リーリエの声は穏やかだった。


「五百年分の涙が——少しだけ、溢れただけです」


 カインが——リーリエを見た。


 深紅の瞳が、不思議なものを見るようにリーリエを見た。この少女は——どこまで見えているのだろう、と言いたげな目。


「……お前は」


「はい」


「泣かないのか」


 リーリエは少し考えた。


「……悲しいです。エルシェさんの話を聞いて——胸が、痛いです。でも——あなたの前で泣いたら、あなたが気にするでしょう。だから今は、泣きません」


 カインの唇が——微かに動いた。苦笑。ほんの僅かな。


「……お前も大概だな」


「お互い様です」


 リーリエの唇にも——ほんの少しだけ、笑みが浮かんだ。


 その一言に、リーリエの胸が温かくなった。言葉の裏にあるものが、確かに伝わってきた。「一人で泣くな」と。「俺もここにいる」と。


 目は笑っていなかった。目の奥には——カインと同じ種類の痛みがあった。けれど表面だけでも笑みを作れることが、今の二人にとっては十分だった。


 カインが——手を離した。


 リーリエの手から、ゆっくりと。名残惜しそうに——ではなく、握りすぎたことへの申し訳なさを滲ませながら。


「……強く握りすぎた。手は大丈夫か」


「大丈夫です。痛くありませんでした」


「嘘だろう」


「嘘じゃないです」


 嘘だった。カインの握力は強く、リーリエの手は少し赤くなっていた。だがリーリエはそれを隠した。カインに罪悪感を持たせたくなかった。


 カインはリーリエの手を見た。赤くなっているのが見えたのかもしれない——だが、何も言わなかった。代わりに視線を逸らし、暖炉の火を見つめた。


 長い沈黙。


 けれどこの沈黙は——重くなかった。今までの沈黙とは違う。カインの過去を聞く前の沈黙は、互いの距離を測るものだった。今の沈黙は——互いの痛みを知った上での、静かな共有。


「……まだ、続きがあるんですよね」


 リーリエが呟いた。


「ああ」


「エルシェさんが炉に命を捧げた後——あなたに、何が起きたのか」


 カインの表情が——硬くなった。


「……追放の話だ。聞きたいか」


「聞きたいです」


 リーリエの声は迷わなかった。


「あなたの全てを——知りたいです」


 全てを。


 その言葉にカインは——一瞬、息を止めた。


「……今夜はここまでだ。続きは——明日」


「はい」


 カインが立ち上がった。脚が少しだけふらついた——消耗が深い。


 リーリエの手の温もりが、まだ指先に残っていた。カインが握り返した手の感触。大きな手。強い手。けれど——震えていた手。


 リーリエも立ち上がり、書斎の扉に向かった。


 扉の前で——振り返った。


「カインさん」


「何だ」


「……おやすみなさい」


 平凡な言葉。日常の言葉。けれど今夜、この言葉には——「明日もまた会いましょう」という約束が込められていた。


 カインは——少しだけ、頷いた。


「ああ。……おやすみ」


 リーリエは書斎を出た。


 廊下を歩きながら——自分の手を見た。カインが握り返した手。まだ温かい。


 胸の中で、あの名前のない痛みが疼いている。カインがエルシェを語るときの、あの目。今ここにいない人を見る、あの目。


 でも——今夜、カインは泣いた。五百年ぶりに。


 それは——少しだけ、氷が溶けたということではないだろうか。


 リーリエは自室の扉を開け、ベッドに腰を下ろした。


 毛布を引き寄せ——手を握りしめた。


 カインの手の感触が、まだ残っている。


 守られていたのは自分だけだと思っていた。カインは強い人で、揺るがない人で、「魔王」という名に相応しい圧倒的な存在だと。


 違った。


 この人は——傷ついている。五百年もの間、誰にも癒されることなく、一人で傷を抱えて歩き続けてきた人。


 「魔王」ではなかった。


 「英雄」でもなかった。


 ただの——傷ついた、一人の人間だった。


 リーリエは毛布の中で膝を抱えた。


 明日、続きを聞く。カインがどうやって「魔王」になったのか。五百年の孤独をどう生きたのか。


 全てを聞いて——そして。


 リーリエの胸の中で、何かが芽生えていた。まだ名前のない、小さな、温かいもの。


 それが何であるかを知るのは——もう少し先のこと。


 リーリエは毛布を引き寄せ、目を閉じた。


 暗い部屋の中で——カインの手の温もりが、まだ指先に残っていた。


 五百年の孤独と、十七年の苦痛。重さは違えど、凍結の仕方は同じだった二人。



 窓の外で風が鳴った。冬の風。冷たい風。けれど書斎の中は——温かかった。

 互いの痛みを知った夜。最初の夜が——終わろうとしていた。


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