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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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止められなかった

 炉に火が入ったのは——冬至の朝だった。


 カインの語りの声が、最も低く、最も静かになった。今までの語りには感情の波があった。苦さ、怒り、懐かしさ。だがこの部分だけは——凪いでいた。凪いでいるのではなく、感情の全てを押し殺して語っている。


 リーリエは息を呑んだ。カインがこの声を出しているということは——これから語られることが、五百年間の中で最も深い傷だということだ。


「最後まで——止めようとした」


 エルシェの決意は変わらなかった。


 カインは一晩中説得した。翌日も。その翌日も。だが災厄の被害は日ごとに拡大し、王都の外壁にまで異形の影が迫っていた。時間は——なかった。


 冬至の朝。空は灰色に曇り、裂け目が幾筋も走っていた。


 王都の地下深く——古い聖堂の中に、炉は築かれていた。エルシェが設計し、建築技師と魔法使いが急造した巨大な装置。石と金属と古代の紋章で構成された円環が、聖堂の中央に鎮座している。


 炉の前に——エルシェが立っていた。


 白い聖衣。金色の髪。翠色の瞳。いつもと変わらない姿。けれど——今日だけは、笑っていなかった。


 カインは炉の前に立ちはだかった。


「通さない」


「カイン」


「通さないと言ったんだ。お前は——死なせない」


 カインの声は震えていた。剣を構えている——だが、刃を向ける相手は敵ではない。守りたい人だ。守りたい人を、止めるために剣を構えている。


 エルシェはカインの前に歩み寄った。


 剣の切っ先が——エルシェの胸の前で止まった。


「退いて、カイン」


「退かない」


「……あなたは優しいわね。五百年前も、今も」


 エルシェの手が——カインの剣に触れた。指先で、刃に触れるように。そっと。剣が——下がった。カインが力を込めているはずの腕が、エルシェの指一本で下がった。


「あの、約束——覚えていて」


 エルシェの声が——震えた。


「別の方法を見つけて。私の後に続く子たちが——同じ運命を辿らないように」


「エルシェ——」


「生きてね、カイン」


 エルシェが——微笑んだ。


 涙が、頬を伝っていた。


 笑いながら泣いている。泣きながら笑っている。両方だった。


「泣かないで。……嘘。本当は私も泣きたい。でも——泣いたら止まってしまうから」


 エルシェはカインの横を通り過ぎた。


 カインの手が——伸びた。エルシェの腕を掴もうとした。指先が触れた——だがエルシェはするりと抜け、炉に向かって歩き始めた。


「待ってくれ——」


 エルシェは振り返らなかった。


 炉の入口に立ち、一歩を踏み出す。


 光が——溢れた。


 炉の内部から白い光が噴き出し、エルシェの身体を包み込む。光の壁が炉の入口を塞ぎ——カインとエルシェの間に、越えられない境界が生まれた。


「エルシェ!」


 カインは炉に駆け寄った。光の壁に手を伸ばした。


 届かない。


 手が——光の壁を突き抜けられない。掌が焼けるような痛みが走る。それでもカインは手を引かなかった。指先に力を込め、腕を突き出し、光の壁を超えようとした。


 届かない。


 光の壁の向こうで——エルシェが振り返った。


 翠色の瞳が、カインを見た。涙で濡れた頬。泣き笑いの表情。


「——生きてね、カイン。そして——別の方法を、見つけて」


 最後の言葉。


 光がエルシェを飲み込んだ。


 少女の輪郭が光に溶け、形を失い——消えた。


 代わりに——炉が、燃え始めた。


 白い炎が炉の中で渦を巻き、天井を突き抜け、地上へ、空へと伸びていく。光の柱が世界を貫き、空の裂け目を塞いでいく。亀裂が閉じ、災厄が外に追い出され、世界を覆う結界——聖なる帳(ヴェール)が、展開された。


 世界は——救われた。


 カインの前には——空の炉だけが残った。


 光の壁は消え、炉の内部は静かに燃えている。白い炎。穏やかで、温かい。まるでエルシェの笑顔のような——優しい炎。


 カインは炉の前に膝をついた。


 手を伸ばした——もう一度。炉の中へ。


 今度は——光の壁はない。手は炉の縁に届いた。だがそこにいるはずの人は——もういない。


「——エルシェ」


 声が割れた。


 カインの叫びが、地下聖堂に反響した。


 五百年後の書斎で——カインの語りが、止まった。


 完全に、止まった。


 過去と現在が書斎の中で重なっていた。五百年前の光の壁と、今夜の暖炉の火。届かなかった手と、届いた手。


 言葉が出てこない。喉が詰まっている。カインの両手が——膝の上で、固く握りしめられていた。関節が白くなるほど。


 暖炉の火が爆ぜた。その音だけが、書斎を満たしていた。


 リーリエは——動いた。


 長椅子から立ち上がり、カインの隣に座った。


 何も言わなかった。


 ただ——カインの手を、両手で包んだ。


 握りしめられた拳。硬い。冷たい。震えている。五百年分の痛みが、この拳の中に詰まっている。


 リーリエの手は小さい。カインの拳を包み込むには——足りない。でも構わなかった。包みきれなくても、触れていればいい。ここにいると、伝わればいい。


 カインの拳が——震えている。


 やがて——カインの指が、ゆるんだ。


 拳が——開いた。握りしめていた手が、リーリエの手を握り返した。


 強く。痛いほどに。


 リーリエは顔をしかめなかった。痛みを受け止めた。


 カインの目に——光が浮かんだ。涙。五百年ぶりの。


 一滴が頬を伝い、顎を伝い、二人の重なった手の上に落ちた。


 カインは——泣いていた。


 声は出さなかった。嗚咽もなかった。ただ涙が、静かに、とめどなく流れていた。


 リーリエは何も言わなかった。言葉はいらない。


 ただ——手を握っていた。


 暖炉の火が、静かに燃えている。薪が時折小さく爆ぜる音だけが、二人の呼吸の間を埋めていた。


 五百年前のあの日、カインの手は届かなかった。光の壁に阻まれた。光の壁に阻まれ、エルシェに触れることができなかった。


 だが今——リーリエの手が、カインの手を握っている。


 届いている。


 小さな手が、大きな手を。


 書斎の中で、二つの影が寄り添っていた。


 暖炉の火が静かに爆ぜる。窓の外で風が鳴る。遠くで夜鳥が啼く。


 五百年前、カインの手はエルシェに届かなかった。光の壁に阻まれ、指先は空を掴んだ。


 だが今——リーリエの手が、カインの手を握っている。


 小さな手。細い指。命を吸われ続けた身体の、それでも温かい手。


 カインは——その温もりを、五百年ぶりに感じていた。人の手の温もりを。自分を責めるのでも、問い詰めるのでもなく、ただそばにいてくれる誰かの——温もりを。


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