私が燃料になる
エルシェが真実を告げたのは、冬の夜だった。
カインの語りの声が——低くなった。書斎の暖炉の火がぱちりと爆ぜ、その音が妙に大きく響いた。
「あの夜のことは——五百年経った今でも、一言一句覚えている」
カインの声が書斎の空気を震わせた。低く、重く、地の底から汲み上げるような声だった。
カインの声が書斎の空気を震わせた。低く、重く、地の底から汲み上げるような声だった。リーリエは杯を握る手に力を込めた。
災厄の被害が臨界に達していた。その日だけで、三つの都市が壊滅した。死者の数はもう数えられない。騎士団の残存兵力は四割を切り、前線は王都の近くまで後退していた。避難民が王都に押し寄せ、城壁の中は人で溢れかえっていた。
このままでは——あと数週で、王都も陥落する。
カインは前線から戻り、研究室でエルシェを見つけた。
エルシェは机に向かっていなかった。窓辺に立ち、夜空を見上げていた。空には裂け目がいくつも走り、暗黒の亀裂が星を遮っている。月明かりすら裂け目に呑まれ、夜は以前より暗くなっていた。
「カインさん」
エルシェが振り返った。
その顔を見て——カインは悟った。
何かが変わっている。エルシェの目に——覚悟がある。穏やかで、静かで、けれど揺るがない。今まで見たことのない種類の——強さ。泣いた跡はないが、泣いた後のような、何かを越えた顔。
「聞いてほしいことがあるの」
「……何だ」
「座って」
研究室の椅子に向かい合って座った。テーブルの上には冷めた茶と、食べかけのパンが放置されている。蝋燭の火が二つ、揺れている。
エルシェの手が、テーブルの上で組まれている。震えてはいない。
「炉の燃料のこと——ずっと隠していてごめんなさい」
エルシェの声は穏やかだった。日常の延長のような声。「明日の天気」を話すような声。けれどその内容は——。
カインの全身に——冷たいものが走った。
「聖なる炉の燃料は——強い魔力適性を持つ者の生命力。つまり——」
「やめろ」
カインの声が遮った。椅子が軋んだ。身を乗り出し、テーブルに両手をついた。
「エルシェ、それは——」
リーリエの指先が白くなるほど、杯を握りしめていた。温かいはずの飲み物が、急に冷たく感じられた。
「私の命よ」
静かな声。事実を述べるだけの、平坦な声。けれどその一言が——カインの世界を砕いた。
「私の命を炉に捧げれば、結界が生まれる。世界を覆い、災厄を追い出し、全ての人を守れる。——それが、炉の燃料」
カインは立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、石の床に当たって大きな音を立てた。
「ふざけるな」
声が震えていた。怒りか恐怖かわからない。両方だった。
「他の方法を探せ。燃料なら他に——魔石でも、聖なる泉でも、何かあるはずだ——」
「全部試したわ」
エルシェの声は冷静だった。
「魔石は出力が足りない。聖なる泉は枯渇する。動物の命では結界が一日も持たない。私ほどの適性を持つ者はいない。他の誰かの命では、結界は半日で消える。私の命なら——数百年は維持できる」
エルシェは研究者の目で——自分の命の計算結果を述べていた。
「だからと言って——」
「毎日、何千人が死んでいるの。カインさん」
エルシェの翠色の瞳が——カインを見た。
「今日だけで三つの都市が消えた。数万の命が。子どもたちも。お年寄りも。街で笑っていた人たちが。明日はもっと増える。明後日はさらに。このまま何もしなければ——世界中の人が死ぬ」
「だからお前が死ぬのか!」
カインの叫びが研究室に反響した。蝋燭の炎が揺れ、影が大きく動いた。
「お前が死んで——それで解決か! お前の命で世界を買うのか!」
「買うんじゃない。——守るの」
エルシェの声は揺るがなかった。
「守るために、一番効率的な方法を選ぶだけ。感情の問題じゃない、計算の問題よ。一人の命と、何百万の命。天秤にかけるまでもない」
「計算の問題だと?」
カインの声が裏返った。
「お前は——お前自身の命を、計算で測るのか。お前の笑った顔も、くだらない冗談も、俺の料理に文句をつける声も——全部、計算の数字にするのか」
その言葉に——エルシェの表情が、初めて揺れた。
唇が微かに震えた。翠色の瞳に——光が揺れた。
だがエルシェは——微笑んだ。
穏やかに。静かに。けれどその微笑みの奥に——泣きたいのを堪えているような、微かな歪みがあった。
「時間がないの。これが——一番早い方法だから」
カインの膝から力が抜けた。
リーリエは息を止めた。胸の奥が絞られるように痛い。カインの叫びが、五百年の時を越えて、今もまだ——響いている。
椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。いや、椅子は倒れている。床に膝をつき、テーブルの端に額をつけた。両手で顔を覆った。
「……嘘だろ」
「嘘じゃないわ」
「嘘だと言ってくれ。他の方法があると——」
「カインさん」
エルシェの手が——カインの手に重なった。テーブルの向こう側から身を乗り出し、震える拳を包み込むように。小さな手。温かい手。
「泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてるわ」
カインの頬に——一筋の涙が伝った。
五百年後の書斎で、カインの語りが——途切れた。
「……あの夜、俺は——」
言葉が続かなかった。
リーリエはカインを見ていた。暖炉の光に照らされた横顔。深紅の瞳が、遠い過去を見つめている。あの夜の研究室を。エルシェの手の温もりを。蝋燭の揺れる光を。
カインの拳が——膝の上で震えていた。
五百年。五百年が経っても——あの夜の涙は、乾いていなかった。
書斎の空気が凍りついたように動かなかった。暖炉の火さえ揺れることを忘れたように、静かに燃えていた。リーリエは自分の心臓の音を聞いた。速く、強く、痛いほどに。カインの痛みが、自分の胸に流れ込んでくるようだった。
リーリエは何も言わなかった。慰めの言葉を探さなかった。
ただ——自分の両手をカインの拳の上にそっと重ねた。
カインの拳が震えている。リーリエの手が、その震えを受け止める。
言葉はいらない。
今は——ただ、ここにいる。
カインの震えが——少しずつ、収まっていった。
「……すまない」
「謝らないでください」
リーリエの声は——穏やかだった。いつも通り。けれどその奥に、確かな温もりがあった。
「続きは——話せますか」
「ああ。……話す」
カインは息を吐いた。長く、深く。
そして——語りを再開した。
「あの夜——俺はエルシェに、他の方法を探す時間をくれと懇願した」




