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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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現在の災厄

 カインの語りが途切れた夜、リーリエは自室に戻らなかった。


 書斎で毛布にくるまり、長椅子の端で浅い眠りについた。カインは反対側の長椅子で、外套をかぶって目を閉じていた。二人の間に暖炉がある。火はゆっくりと衰えていった。


 翌朝——扉を叩く音で目が覚めた。


 リュカだった。


「旦那様、お嬢。朝飯の前に——ちょっと厄介な報告が来てます」


 リュカの声はいつもの軽さを保っていたが、その奥に硬さがあった。


 書斎に入ってきたリュカの手には、数通の報告書が握られている。各地の協力者から魔王城に届けられたもの——結界の監視網を通じた定期報告。


「東部の平原地帯で結界の揺らぎが観測されたそうです。小規模な裂け目が三箇所。災厄の部分的侵入があったと」


 カインが報告書を受け取り、目を通す。表情は変わらないが——眉間の皺が僅かに深くなった。


 紙を持つ指先に力が入り、報告書の端が微かに皺になった。五百年前と同じ報告。同じ言葉。「結界が揺らいでいる」——あの時代の悪夢が、再び。


「南部の港町でも同様の報告です。結界が薄くなっている地点が増えている。原因は——」


 リュカが言いかけて、口を閉じた。リーリエを見た。


 原因は明白だった。


 リーリエが炉から離れていること。聖女が炉のそばにいなければ、結界への命の供給が不安定になる。リーリエが魔王城にいる限り、結界は少しずつ弱まっていく。


 リーリエは報告書を受け取り、静かに読んだ。


 東部の平原——農村地帯。裂け目から侵入した災厄は小規模だったが、畑が焼け、家畜が逃げた。怪我人が出た。死者は——今のところいない。だが次は、わからない。


 リーリエの手が——微かに震えた。


「……私のせいですね」


 声は静かだった。責める声でも、嘆く声でもない。事実を述べる声。


 私が炉から離れているから、結界が弱まっている。裂け目が開き、災厄が侵入し、人が傷ついている。


「お嬢——」


「いいんです、リュカさん。事実ですから」


 リーリエは報告書を丁寧に畳み、テーブルに置いた。


 胸の奥が——重かった。聖女の紋章が鈍く疼く。炉との繋がりが薄れていることを、身体が感じ取っている。


 自分がここにいることで、世界に被害が出ている。



 リーリエは左胸に手を当てた。紋章が脈打っている。その脈動が、今はいつもより強く感じられた。カインの過去と、自分の現在が重なる場所で——紋章が、応えていた。

 ならば——戻るべきなのか。教会の炉に。あの祭壇に。命を燃やし続ける場所に。


 その考えが頭をよぎった瞬間——カインの声が割り込んだ。


「お前のせいじゃない」


 低い声。断定的な声。


 リーリエが顔を上げると、カインが報告書を読みながら——しかし視線はリーリエに向けて——言った。


「結界が弱まっているのは、炉の構造の問題だ。一人の命に依存する仕組みそのものが欠陥なんだ。お前が炉から離れたから弱まるのではない——炉がお前を縛りつけていたから、今まで維持されていただけだ」


「でも、結果として——」


「結果は俺たちが対処する。レオンハルト、各地の報告に対応できる人員はいるか」


 書斎の扉の外で壁に背を預けていたレオンハルトが、中に入ってきた。


「東部と南部に、信頼できる元聖騎士を送れます。災厄の侵入が小規模なうちは対処可能かと」


「やれ。報告は逐一ここに上げろ」


「了解した」


 レオンハルトが頷いて出ていった。


 カインは報告書をテーブルに置き、立ち上がった。


 そして——リーリエの傍を通りすぎるとき、一瞬だけ足を止めた。


 リーリエの頭に——手が、置かれた。


 大きな手。温かい手。不器用に、そっと。髪の上から、ぽんと一度だけ触れて——離れた。


 カインは何も言わなかった。言葉にしなかった。「お前のせいじゃない」と言い切ったあとで、それ以上の慰めを言語化できなかったのだろう。だから——手で、伝えた。


 リーリエは目を伏せた。


 頭に残る温もり。カインの手の重さ。


 報告書の内容は重い。自分が炉から離れていることで、世界に被害が出ている。それは事実だ。


 だが——カインの手の温もりも、事実だった。


「……カインさん」


「何だ」


「数百年前と——同じことが、また起ころうとしているんですね」


 カインが振り返った。


 リーリエはカインを真っ直ぐに見ていた。報告書を読んで知った現在の危機と、昨夜まで聞いていたカインの過去。五百年前の災厄と、今の結界の弱体化。構造は同じだ。


「結界が弱まり、災厄が侵入し、世界が危機に瀕する。五百年前にエルシェさんが直面したことと、同じ——」


「同じだ」


 カインの声は硬かった。


「だからこそ——別の道を見つけなければならない。エルシェと同じ結末を繰り返すわけにはいかない」


 別の道。


 エルシェが遺した言葉。カインが五百年間追い続けた希望。


「あの子は——エルシェは、別の方法があると言った。炉を動かす別の燃料があると。俺はそれを五百年探し続けてきた。まだ見つかっていない——だが、手がかりはある」


 カインの深紅の瞳に、暗い炎が灯った。


「今度は——間に合わせる」


 リーリエは頷いた。


 自分の胸に手を当てた。紋章が微かに光っている。炉との繋がり。聖女としての宿命。


 でも——もう一つの道があるなら。


 誰も犠牲にならない道があるなら。


 探す価値はある。


「……カインさん。過去の続きを——聞かせてください。エルシェさんが何を考え、何を遺したのか。全てを知りたいです」


 カインは一瞬だけ目を閉じ——頷いた。


「今夜、続きを話す。……核心に近い話だ。覚悟しておけ」


 リーリエは息を止めた。暖炉の火が揺れ、書斎の壁に二人の影が大きく揺れた。冬の風が窓ガラスを叩く音が、遠くから聞こえた。


 核心。


 炉の燃料の真実。エルシェの決断。カインが止められなかったもの。


 リーリエは静かに頷いた。


 リーリエは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。冬の風が窓ガラスを揺らしている。外は灰色の空。低い雲が地平線まで広がり、世界を覆っている。


 結界が弱まっている。


 リーリエが炉から離れているから。リーリエの命が炉に供給されていないから。


 この窓の向こうのどこかで——裂け目が開き、災厄が侵入し、誰かが傷ついている。


 だが——戻るわけにはいかない。炉に戻れば、リーリエの命は再び燃やされる。そしていつか、燃え尽きる。エルシェと同じように。


 第三の道が必要だ。


 誰も犠牲にならない道が。


 リーリエは窓に手を当てた。冷たいガラスの向こうに、広い世界がある。カインが五百年かけて歩いた世界。エルシェが命を懸けて守った世界。


 窓の外で、冬の風が鳴っていた。過去と現在が——重なり始めている。


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