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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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災厄の時代

 世界は、崩れ始めていた。


 カインの語りは、この部分を早口で進めた。詳細に語ることに耐えられないのだと、リーリエにはわかった。


 ヴィルデの森の村だけではなかった。東の港町アーベント——海運で栄えた美しい街が、一夜で廃墟になった。西の山岳都市グリューン——堅固な城壁を持つ軍事拠点が、裂け目からの侵入に耐えきれず陥落した。南の交易路の中継地——商人たちが行き交う活気ある町が、灰と化した。次々と報告が届く——裂け目が広がり、災厄が侵入し、街が呑まれていく。


 騎士団は全勢力を投入して各地に部隊を派遣したが、焼け石に水だった。災厄は物理的な攻撃では消滅しない。聖なる力を帯びた武器でなければ傷をつけられず、そんな武器を持つ者は限られている。


 カインは前線に立ち続けた。


 朝から晩まで剣を振り、災厄の影を斬り伏せる。一日に数十体。良い日で百体。だが裂け目は一つ閉じたそばから三つ開く。削っても削っても減らない。


 腕が痺れた。肩が軋んだ。足が重い。傷が増える。回復する間もなく次の前線に送られる。


 食事は携帯食糧を齧るだけ。睡眠は馬上で数刻。それでも——カインは止まらなかった。


 止まれなかった。


 止まれば——エルシェが一人で裂け目に立ち向かうことになる。それだけは、許せなかった。


 だがエルシェもまた、止まっていなかった。


 前線から魔王城に戻ると——いや、この時代にはまだ魔王城は存在しない。騎士団の本拠地に戻ると、エルシェは研究室にこもっていた。


 夜明けから深夜まで。文献を読み漁り、数式を書き連ね、理論を組み立てては壊し、壊しては組み立てる。


 カインが戻ったのは、三日ぶりの夜だった。


 研究室の扉を開けると——エルシェがいた。机に向かい、羊皮紙に何かを書いている。周囲には食べかけのパンと冷めた茶が放置されている。


「エルシェ」


 声をかけると、エルシェが振り向いた。


 その顔を見て——カインの足が止まった。


 目の下に深い隈。頬がこけている。唇の色が薄い。数日の間に、目に見えて痩せていた。


「おかえり、カインさん。怪我は?」


「俺のことはいい。お前——いつから寝ていない」


「寝てるわよ。……昨日の朝に少し」


「少しとは何時間だ」


「……二刻くらい」


 カインは眉間に深い皺を刻んだ。


「食事は」


「パンを——」


「いつの」


「……覚えてない」


 エルシェの目の下の隈が、蝋燭の光に濃い影を落としていた。頬の肉が落ち、骨格が浮き出ている。以前は健康的な薔薇色だった唇が、今は乾いて白い。


「エルシェ」


 カインの声に怒気が滲んだ。だがエルシェは悪びれた様子もなく、羊皮紙をカインに向けた。


「見て、カインさん。理論が——形になりつつあるの」


 羊皮紙には複雑な図式が描かれていた。円環と放射線が交差し、古代文字が周囲を囲む。カインには理解できない——魔法工学の領域だ。


「世界を丸ごと覆う結界を作れれば、災厄を外に追い出せる」


 エルシェの目が輝いていた。疲弊の奥で、知性の炎だけが明々と燃えている。


「個々の裂け目を塞ぐのではなく、世界そのものを殻で覆う。殻の内側は安全で、災厄は外に追い出される。永続的に——世界を守れる」


「……そんな大きな力を、一人で扱えるのか」


 カインの問いに——エルシェは笑った。


 笑って——答えなかった。


 視線を羊皮紙に戻し、何かを書き加える。カインの問いを聞いていないふりをしているのか、それとも——答えたくないのか。


 カインの胸に、嫌な予感が走った。


「エルシェ。聞いているのか」


 エルシェの手が、羊皮紙の上で一瞬止まった。ペン先がインクの染みを作った。小さな黒い点が、白い紙の上に広がっていく。それを見つめるエルシェの目が——どこか遠くを見ていた。


「聞いてるわ。……ねえ、カインさん。お腹空いてない? 確かパンがどこかに——」


「話を逸らすな」



 その微笑みの裏に何があるのか——カインは、見ないふりをした。見てしまえば、止められなくなる。止めてしまえば、世界が終わる。

 カインの声が鋭くなった。


 エルシェは——一瞬だけ、笑顔を消した。


 翠色の瞳が、カインを見た。その奥に、複雑な感情の渦があった。罪悪感と、覚悟と、それから——柔らかな悲しみ。


 だがそれは一瞬のことで、すぐにいつもの笑顔が戻った。


「大丈夫よ。理論はまだ途中だもの。燃料の問題が解決すれば——」


「燃料?」


「結界を維持するにはエネルギーがいるの。その燃料をどうするか、まだ研究中。……心配しないで、ちゃんと考えているから」


 エルシェは微笑んだ。


 その微笑みが——カインには、刃のように鋭く見えた。


 嘘をついている。


 エルシェは何かを隠している。燃料の問題は「研究中」なのではなく——もう、答えを見つけているのではないか。


 その答えが何であるか——カインは、まだ知らなかった。


 知りたくなかったのかもしれない。


 カインの語りが書斎に戻った。


「あの時点で——俺はもう、気づいていたのかもしれない」


 低い声。暖炉の火に照らされた横顔が、影に沈む。


「エルシェが笑って答えないとき——それは、答えを知っていて、俺に言えないときだった。あいつの癖だ。嘘が下手なくせに、笑顔だけは上手い」


 カインの拳が——膝の上で握りしめられた。


「わかっていた。わかっていて——問い詰めなかった。聞けば、答えが返ってくる。その答えを——聞きたくなかったんだ」


 リーリエは黙って聞いていた。


 カインの声が震えていないことが——かえって痛ましかった。震えない声で語ることに、五百年の歳月を費やしてきた男の、乾いた強さ。


 リーリエは自分の左胸に手を当てた。聖女の紋章が微かに脈打っている。


 結界の燃料。命を燃やすこと。


 それは——リーリエ自身が、今まさに背負っているもの。


 五百年前のエルシェが選ぼうとしていたことと、リーリエの現在が——重なる。


 カインはその重なりに気づいているだろうか。


 気づいているからこそ——こうして、語っているのだろう。


 カインの過去を聞くたびに、リーリエの中で何かが変わっていく。カインが自分を守る理由。カインが聖女制度を憎む理由。カインが「別の道」を探し続ける理由。


 全てが——繋がっていく。


 五百年前のエルシェと、今のリーリエが。同じ炉に。同じ構造に。同じ犠牲に。


 リーリエは杯を置き、暖炉の火を見つめた。炎が揺れている。オレンジ色の光が波のように明滅し、薪の樹脂が甘い匂いを放っている。エルシェの命が形を変えた炎も——きっと、こんなふうに揺れていたのだろう。温かく、穏やかに、けれど確実に何かを消費しながら。


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