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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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不穏な空

 最初の村が壊滅したのは、秋の終わりだった。


 北の辺境——ヴィルデの森の近くにある小さな村。カインとエルシェが最初に裂け目を塞いだ場所の、ほど近く。住民は三百人ほど。小さな教会と市場があり、農業で生計を立てる穏やかな村だった。


 カインとエルシェが裂け目を塞いだとき、村人たちは感謝の宴を開いてくれた。素朴な料理と安い酒。村長の老人が「これで安心だ」と笑った。エルシェが「また来ますね」と微笑んだ。


 その村が——消えた。跡形もなく。笑った村長も、焼きたてのパンの匂いも、子どもたちの歌声も——全て。


 その村には畑があった。子供たちが走り回る広場があった。夏の夕暮れには踊りの輪ができ、笑い声が森の向こうまで届いたという。その全てが——消えた。


 報告が届いたのは夜明け前だった。伝令の騎士が馬を走らせ、野営地に駆け込んできた。顔は蒼白で、声が震えていた。馬は泡を吹き、脚が折れそうなほど酷使されていた。


「裂け目が——空が裂けたまま、塞がらないのです。そこから——ものが、出てきました。村は——」


 言葉はそこで途切れた。伝令は膝をつき、嗚咽した。


 カインとエルシェは馬を飛ばした。


 村に着いたのは正午過ぎだった。


 村は——なかった。


 家屋は倒壊し、畑は焼け、井戸は枯れていた。瓦礫の間に、人の姿はない。生存者もいなければ——遺体もない。まるで村そのものが「食われた」かのように、全てが消えていた。


 そして空を見上げれば——裂け目があった。


 今までの裂け目とは比較にならない。空を横断する巨大な亀裂。その向こうに広がる暗黒から、異形の存在が——地上に降り立っていた。


 形を持たない影。人の輪郭に似ているが、人ではない。質量があるのかないのかもわからない。ただ「暗い」。光を吸い込み、熱を奪い、生命を喰らう——虚無の化身。


 後にこれが「災厄」と呼ばれるようになる。


 カインは剣を抜いた。


 聖騎士の剣が白い光を帯びる。刃を振り下ろすと、異形の一体が散った——が、次の瞬間には裂け目から新たな影が溢れ出す。


「……切りがない」


 カインは歯を食いしばった。一体を倒しても、十体が現れる。百体を斬っても、千体が湧く。裂け目が開いている限り、災厄は尽きない。


「エルシェ!」


 カインが叫んだ。


 エルシェは既に両手を掲げていた。白い光が彼女の身体から放たれ、裂け目に向かって突き進む。


 光が裂け目に触れた。亀裂が——収縮し始める。


 だが、遅い。裂け目が大きすぎる。エルシェの力が裂け目の端を縮めるそばから、中央部が広がっていく。


 エルシェの膝が震えた。額から汗が滴る。歯を食いしばり、力を振り絞る。


「エルシェ、無理をするな!」


「無理を——しないと——間に合わない——!」


 エルシェの声は途切れ途切れだった。力を放ちながら、身体が限界に達している。


 それでも——裂け目は、辛うじて縮小した。完全には閉じなかったが、災厄の流入は一時的に止まった。


 エルシェが膝をつく。両手を地面について、荒い呼吸を繰り返す。


「……大きすぎる」


 エルシェの声が震えていた。初めて——その声に、恐怖が混じっていた。


「一つずつ塞いでいたのでは——間に合わない」


 カインはエルシェの傍に駆け寄り、肩を支えた。


「立てるか」


「ええ。……ありがとう」


 エルシェは立ち上がった。だが足元がふらつく。カインが腕を回して支えた。エルシェの身体が——軽い。以前より、確実に。力を使うたびに、何かが削られている。


「エルシェ。このままでは——」


「わかっている」


 エルシェの翠色の瞳が、壊滅した村の跡を見つめた。


「個別に塞ぐのでは追いつかない。もっと——根本的な方法が必要なの」


 根本的な方法。


 エルシェの目に——光が宿った。恐怖とは別の、もっと奥深い場所から湧き上がる光。知性と意志が結晶した、決意の光。


「世界を——丸ごと守る方法がある。まだ理論だけだけれど——」


「どういう意味だ」


「帰ったら話すわ。今は——」


 エルシェが空を見上げた。裂け目はまだ完全には閉じていない。細い亀裂が残り、そこから暗い気配が漏れ出している。


「もう少しだけ、力を使わせて」


 エルシェはカインの腕から離れ、再び両手を掲げた。


 カインは——その背中を見た。


 小さな背中。細い肩。風に揺れる金色の髪。世界の重さを一人で背負おうとしている、少女の背中。


 守れ。


 胸の奥で、理屈ではない何かが叫んだ。騎士の誓いではない。任務でもない。もっと根源的な——魂の命令だった。


 カインは剣を構え、エルシェの前に立った。裂け目から漏れ出す異形の影を斬る。一体、また一体。


 エルシェが裂け目を塞ぐ間、一歩も退かなかった。


 剣の柄が汗で滑った。握り直す。振り下ろす。斬る。また振り下ろす。身体が覚えている動作だけが、カインを支えていた。


 それが——聖騎士としての、自分にできる全てだった。


 カインの語りの声が低くなった。


「……あの日、初めて理解した。俺の剣では——世界を守れないと。エルシェの力でさえ追いつかないものに、剣が通用するはずがない」


 書斎の暖炉の火が揺れた。


「それでも俺は、剣を振ることしかできなかった。エルシェの前に立って、影を斬って、背中を守って。——それだけしか」


 カインの声が——途切れた。


 リーリエは杯を握ったまま、静かにカインを見つめていた。


 カインがエルシェの前に立つ姿。それは——リーリエの前に立つカインの姿と、重なった。


 教会の城塞で。聖騎士団の追手の前で。カインはいつも、リーリエの前に立っていた。剣を構えて。一歩も退かずに。


 あの行動の原型が——ここにあった。


 五百年前の辺境の村で。壊滅した瓦礫の上で。エルシェの背中を守る若き騎士が——カインの全ての始まりだった。


 リーリエは何も言わなかった。ただ——杯を両手で包み、その温もりを確かめた。杯から伝わる熱が指先を温め、掌から腕へ、腕から胸へとゆっくり広がっていく。


 カインの剣は、五百年前から——変わっていない。


 守りたい人の前に立ち、刃を振るう。それしかできない不器用さも。


 だがエルシェは——その不器用さに、どれほど救われただろう。カインがいるから戦える。カインがいるから背中を任せられる。


 そして今、リーリエも——同じことを感じている。カインの背中が、どれほど心強いか。



 リーリエは杯の縁に唇を寄せたまま、カインの横顔を見つめていた。暖炉の光が深紅の瞳を照らしている。この人はあの頃から——ずっと、誰かの背中を守ってきた。

 言葉にはしなかった。まだ——言葉にする必要はなかった。


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