穏やかな日々
聖騎士と聖女の旅が始まった。
各地に広がる空の裂け目を塞ぐため、カインとエルシェは王都を出て辺境を巡った。二人きりの旅ではない——数名の補佐騎士と補給係が同行していた。だがエルシェの護衛として常にその傍にいるのは、カインだけだった。
春の始めに王都を発ち、北の辺境から南へ。街道を馬で進み、道なき森を歩き、河を渡り、山の峠を越える。裂け目の報告がある場所を一つずつ巡り、エルシェが塞ぎ、次に向かう。その繰り返し。
旅の日常は、意外なほど穏やかだった。
少なくとも——裂け目のない場所では。日差しは温かく、風は草の匂いを運び、森では鳥が歌っていた。世界はまだ美しかった。裂け目さえなければ——完璧に美しい世界だった。
野営の夜。カインが焚き火の前で携帯食糧を温めている。鍋の中身は干し肉と根菜の煮込み——のはずだった。
「……カインさん、これは何?」
エルシェが鍋を覗き込み、眉を寄せた。
「煮込みだ」
「煮込み? これが?」
「文句があるなら自分で作れ」
「あるわよ。これ、味がしないもの。塩は?」
「……入れ忘れた」
エルシェは大げさにため息をついた。
「騎士団って、料理は教えてくれないの?」
「剣を振るのが仕事だ。料理は——」
「言い訳はいいから、塩を取って」
カインは黙って塩を差し出した。エルシェが鍋に塩を振り入れ、かき混ぜ、味を見て頷く。
「うん。まだ微妙だけど、さっきよりはましね」
「……悪かった」
「謝らなくていいわ。明日からは私が味付けする。カインさんは薪割りと火起こし担当ね」
エルシェは笑って鍋の中身を椀に注いだ。カインの分も。
「はい、どうぞ」
椀を受け取るカインの手に、エルシェの指が触れた。一瞬だけ——カインの動きが止まった。
「……どうしたの?」
「何でもない」
カインは椀を受け取り、顔を背けて食べ始めた。
焚き火の明かりに照らされたカインの耳が——微かに赤い。
エルシェはそれに気づいたが、何も言わなかった。ただ、少しだけ嬉しそうに微笑んで、自分の椀にも口をつけた。
旅は続く。
道中、エルシェは花を見つけると必ず名前を教えてくれた。「これはスミレの一種。あっちの青いのは勿忘草」。カインは花の名など一つも知らなかったが、エルシェが嬉しそうに指差すので、黙って聞いていた。
裂け目を一つ塞いでは次の場所へ。山を越え、川を渡り、森を抜けて。エルシェは裂け目の前に立ち、両手を掲げ、力を放つ。白い光が裂け目を包み、亀裂が縮み、閉じる。
その間、カインは剣を構えて周囲を警戒する。裂け目の周辺には異形の気配が漂うことがある。まだ「災厄」と名付けられる前の、小さな影。カインはそれらを斬り伏せ、エルシェの背中を守った。
「ありがとう、カインさん」
裂け目を塞ぎ終えたエルシェが、疲れた顔で振り返る。
「……礼はいらない。任務だ」
「またそれ。任務、任務って。少しは素直に『どういたしまして』って言えないの?」
「……どういたしまして」
「棒読み」
二人の掛け合いは、いつの間にか旅の日常になっていた。
朝はカインが火を起こし、エルシェが味付けをする。昼は並んで馬を走らせ、道中に見つけた花の名前をエルシェが教える。夜は焚き火の前で、エルシェが裂け目の理論を語り、カインが半分も理解できずに眉を寄せる。エルシェはそれを見て笑い、「もう少し簡単に説明するわ」と言って、結局もっと難しい話になる。
穏やかな日々。掛け替えのない日々。
五百年経った今だから——カインにはわかる。あの日々がどれほど貴重だったか。
だが——裂け目は、増えていた。
一つ塞いでも、別の場所に新たな裂け目が生まれる。塞ぐ速度より生まれる速度の方が速い。エルシェの力を以てしても、追いつかなくなり始めていた。
カインはそれに気づいていた。
エルシェが裂け目を塞ぐたび、膝をつく時間が長くなっている。立ち上がるまでの呼吸が荒くなっている。額に汗が浮かび、唇の色が薄くなっている。
力の消耗が——蓄積している。
「エルシェ」
ある夜、焚き火の前でカインは声をかけた。
「少し休んだ方がいい。このまま続ければ身体が——」
「大丈夫よ。あなたは心配しすぎ」
エルシェは笑った。いつもの笑顔。朗らかで、強くて、揺るがない。
だがカインは——その笑顔の奥に、疲労が滲んでいるのを見た。
「大丈夫じゃない。お前の——」
「大丈夫だって言ってるでしょう」
エルシェの声に——初めて、硬さが混じった。
カインは口を閉じた。
エルシェは火を見つめていた。焚き火の炎が翠色の瞳に映り込んでいる。
「……ごめんね。怒ったわけじゃないの」
「わかっている」
「ただ——立ち止まれないだけ。裂け目が増えているのは私にもわかっている。でも、私が止まれば——その間に、誰かが死ぬ」
エルシェの声は静かだった。笑顔は消え、聡明な瞳が炎を見つめている。
「だから——止まれない。まだ、止まれないの」
カインは何も言えなかった。
エルシェの言葉は正しい。裂け目を放置すれば、そこから異形が侵入し、人が死ぬ。エルシェが休む時間は、誰かの命と引き換えになる。
わかっている。理屈ではわかっている。
だが——見ていた。カインは見ていた。エルシェの笑顔が、日に日に薄くなっていくのを。朗らかだった声に、時折疲れが混じるのを。夜、焚き火の向こうで——エルシェが両手を見つめて、何かを考え込んでいるのを。
あの時もし、もっと強く止めていれば。もっと別の方法を探していれば。
だが——。
カインの語りが、再び書斎に戻った。
「……昔から料理は下手だったんですね」
リーリエの声が、静かに挟まれた。
カインが——一瞬、虚を突かれた顔をした。
「……何だ突然」
「いえ。今のあなたも、料理は——」
「……黙れ」
カインの声に、微かな照れが混じった。リーリエの唇が、ほんの少し——ほんの少しだけ、上がった。
「エルシェさんが味付けをして、あなたが火起こしをする。——今のマリカさんとあなたの関係に似ていますね」
「……似ていない」
「似ていると思います」
リーリエは穏やかに言った。
カインは答えなかった。ただ——視線を逸らした。
その横顔に浮かぶ表情を、リーリエは見た。苦さと、懐かしさと、それから——名前のつかない温かさが、入り混じっている。
「続けるぞ」
カインが語りを再開した。声は少しだけ——柔らかくなっていた。
「裂け目は増え続けた。エルシェの力だけでは——もう、追いつかなくなっていた」




