騎士の誓い
翌日の夜、カインの語りは再開された。
書斎にはまた温かい飲み物が用意されていた。今度は薬草茶だった。リュカの選択——昨夜の消耗を見て、滋養のあるものを選んだのだろう。杯の縁から薄い湯気が立ち昇り、苦みのある薬草の香りが書斎に漂っている。
カインは杯を口に運んだ。苦みのある薬草の味が舌に広がり、身体の芯にじんわりと温もりが染みていく。昨夜の消耗が残っているのだろう——手が微かに震えていた。それを隠すように、杯を両手で包み込んでから、語り始めた。
エルシェの力が教会に認められるまで、そう時間はかからなかった。
空の裂け目を塞げる唯一の存在。その価値を、教会の上層部は即座に見抜いた。エルシェは正式に「聖女」の称号を与えられ、カインは彼女を護る聖騎士——初代の聖騎士として任命されることになった。
任命の儀式は、王都アルトハイムの大聖堂で行われた。
石造りの荘厳な空間。高さ三十メートルを超える天井にステンドグラスが嵌め込まれ、色とりどりの光が石畳に降り注ぐ。香の煙がたなびき、聖歌隊の歌声が石壁に反響する。教会の要職者たちが列席し、騎士団の仲間たちが見守る中、カインは大聖堂の中央に跪いた。
正装の聖騎士甲冑を纏い、剣を両手で捧げ持つ。甲冑は白銀。剣の鍔には聖紋が刻まれている。
エルシェが——目の前に立っていた。
いつもの麻の衣ではなく、聖女としての白い聖衣を纏っている。裾が石畳に広がり、肩には金糸の刺繍が施されたマントがかかっている。金色の髪が聖堂の光を受けて輝き、翠色の瞳が真っ直ぐにカインを見下ろしていた。
普段の朗らかな笑顔はなく、儀式に相応しい凛とした表情。だがその目の奥に——カインにだけ見える、微かないたずらの光が宿っていた。
聖職者が誓いの言葉を促した。
カインは剣を捧げ持ち、声を上げた。
「この剣に誓います。聖女を護り、聖女に仕え、聖女の歩む道を切り開くことを」
大聖堂に声が反響した。カインの声は若く、力強く、一点の曇りもなかった。
「——この命に代えても、あなたを守ります」
荘厳な誓い。列席者たちが厳粛な面持ちで頷いた。教会の長が聖水を振りかけ、祝福を授けた。
だが——エルシェだけが、違う反応をした。
聖女は——微笑んだ。式の厳かさにはそぐわない、いたずらっぽい微笑み。聖職者は気づかなかったが、カインには見えた。
式が終わり、大聖堂を出たとき。
「カインさん」
エルシェが振り返った。聖衣の裾が石畳の上で翻る。大聖堂の前の広場。冬の澄んだ空気の中で、白い息が漂う。
「あの誓い、ちょっと重すぎない?」
「……何がですか」
「『この命に代えても』って。命を代えるなんて、そんな必要ないわ」
エルシェは笑った。大聖堂の外の広場に立ち、冬の日差しを浴びながら。金色の髪が風に揺れ、頬が寒さで少し赤くなっている。
「命に代えなくていいから——一緒にいてね」
大聖堂の外の広場で。冬の日差しの中で。金色の髪が風に靡き、頬が寒さで少し赤くなっている。翠色の瞳が——真っ直ぐに、カインを見つめていた。
カインは困惑した。誓いは聖騎士として当然のもので、命を懸けることは騎士の本分だ。それを軽々しく否定されたことに、真面目な騎士は戸惑った。
「……聖女として、護衛の誓いを——」
「聖女としてじゃなくていいの。エルシェとして言ってるのよ」
エルシェの翠色の瞳が、カインを真っ直ぐに捉えた。笑みの奥に、柔らかな真剣さがあった。聖女の権威ではなく、一人の少女としての——願い。
「死んでまで守ってくれなくていい。生きて、一緒にいて。その方がずっと嬉しいから」
カインは——答えに詰まった。騎士として訓練された言葉が、喉元で詰まった。
「……もちろんです。共にいることが、任務でもありますから」
「堅いなあ」
エルシェは声を上げて笑った。大聖堂の広場に、その笑い声が響いた。冬の空に白い息が昇る。鳩の群れが飛び立ち、ステンドグラスの光が広場に色を落とした。
「まあいいわ。そのうち柔らかくなるでしょう。付き合いが長くなれば」
付き合いが長くなれば。
その言葉を、エルシェは当たり前のように口にした。長い未来が続くことを、疑っていなかった。
——少なくとも、あの頃は。
カインの語りが途切れた。
書斎の空気が変わった。暖炉の炎が揺れ、影が壁に踊る。
カインの声に——苦みが滲んだ。
「『この命に代えても、守る』と誓った。だが——命を代えることすら、できなかった」
低い声。掠れた声。五百年分の後悔が、その一言に凝縮されていた。
「誓いの言葉は——五百年間、俺の首に巻きついている。果たされなかった約束として。守れなかった聖騎士の、汚点として」
リーリエは——黙っていた。
何も言えなかった。言うべき言葉がなかった。口を開きかけて、閉じた。安易な慰めはカインを傷つける。わかったふりをすることも。だから黙った。黙ることしかできなかった自分が——少し、歯がゆかった。
ただ——エルシェの言葉が、胸に残った。
「命に代えなくていいから、一緒にいてね」
それは——リーリエがいつか、カインに言いたい言葉かもしれないと思った。
思って——驚いた。自分がそんなことを考えるとは。
死にたがりだった自分が。生きることに疲れていた自分が。「一緒にいて」と——誰かに、言いたいと思うなんて。
リーリエはその感情を、まだ深くは掘らなかった。掘る時ではない。今はただ——カインの語りを聞く。
「……カインさん」
「何だ」
「エルシェさんは——正しかったと思います」
カインが顔を上げた。
「命に代えなくていい。一緒にいてほしい。——それは、とても真っ直ぐな願いだと思います」
リーリエの声は静かだった。穏やかで、けれど確かだった。
カインは——しばらくリーリエを見つめていた。暖炉の火が爆ぜ、その音だけが部屋に響いた。
深紅の瞳が揺れた。あの日の大聖堂の光と、今の暖炉の光が、重なるように。五百年前の誓いの言葉と、リーリエの声が、響き合うように。
「……ああ」
一言だけ。
カインは杯を持ち上げ、薬草茶を飲んだ。冷めていたが——構わなかった。
「続けるぞ。——穏やかな日々は、長くは続かなかった」
リーリエは頷いた。
聖騎士の誓い。聖女の願い。
二つの言葉が、五百年の歳月を越えて、暖炉の炎のようにカインの胸を灼き続けている。
リーリエは杯の中で冷たくなった薬草茶に目を落とした。苦みの残る液面に、暖炉の炎が小さく揺れている。その水面に映る自分の瞳が——少しだけ、揺れていた。




