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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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聞く者の涙

 深夜を過ぎた頃、カインの語りが途切れた。


 書斎の暖炉はまだ燃えているが、薪が細くなり、炎が小さくなっていた。蜂蜜と生姜の飲み物はとうに冷め、杯は二つとも脇に置かれている。書斎の隅に影が濃くなり、壁の書棚が暗闇に沈みつつある。


 リーリエは長椅子に座ったまま、カインを見つめていた。


 カインは——疲れている。


 それは身体の疲労ではない。数百年封じてきた記憶の蓋を開けることの、精神的な消耗。口にするたびに傷口を開く行為を、カインは自らに課している。


 リーリエにはそれがわかった。


 カインの声は語りを進めるごとに低くなっていった。言葉の合間の沈黙が長くなった。最初は一拍だった間が、やがて三拍になり、五拍になった。語りの中で過去に沈み、時折——ここではない場所を見る目になった。


 エルシェの話をするとき。


 カインの目が変わる。


 リーリエは最初、それを「懐かしさ」だと思った。五百年前の記憶を辿る者の、当然の表情だと。暖炉の火が揺れるたびにカインの横顔に影が走り、深紅の瞳が琥珀色に染まる。その目が——どこか遠い場所を見ている。リーリエのいるこの書斎ではない場所を。


 だが——違った。


 カインの瞳に浮かぶのは懐かしさではない。もっと鋭く、もっと深い何か。水に落としたものを水底に見つめるような——指の間から零れ落ちたものを、まだ掴もうとしている者の——目。


 失ったものを、まだ追っている目。


 リーリエの胸に、小さな棘が刺さった。


 痛い。けれど——何が痛いのか、わからない。


 カインが「エルシェ」と口にするたびに、声の温度が変わる。硬く無愛想な声が、ほんの僅かに——ほどける。そこに柔らかさが混じる。数百年経っても磨耗しない、温かな記憶の残滓。リーリエの名を呼ぶときには決して現れない温度。


 リーリエは自分の胸に手を当てた。聖女の紋章が微かに脈打っている。


 この痛みは——何だろう。


 嫉妬? 違う。嫉妬するほどの感情は、まだリーリエの中で名前を持っていない。そもそも嫉妬という感情がどういうものか、凍結した心では正しく認識できない。


 悲しみ? それも違う。カインの過去を聞いて悲しいのは事実だが、この痛みは悲しみとは方向が違う。


 わからない。ただ——カインが「ここにいない人」を見ているとき、自分が透明になるような気がした。カインの視線がリーリエを通り抜けて、もっと遠い場所にいる誰かに届いているような。自分はここにいるのに——見えていない。


 リーリエはその感覚を、奥にしまい込んだ。


 今は——自分の痛みを掘る時ではない。カインが過去を語るこの時間は、カインのものだ。リーリエの痛みは——あとで考える。


 カインの語りに耳を傾け続けた時間は、もう数刻になる。カインの声が掠れ始めていた。唇が乾き、言葉を探す間が長くなっている。肩が僅かに丸まり、暖炉の光に照らされた横顔に疲労の影が落ちている。


 リーリエは長椅子に座ったまま、カインの様子を見つめていた。語りを進めるごとに、カインの身体が傾いでいく。背筋を伸ばしていた姿勢が崩れ、肩が丸くなり、声がだんだんと低くなっていく。重力に引かれるように——過去の重さが、身体ごとカインを沈めていた。


 リーリエは立ち上がった。


「カインさん」


 カインが——はっとしたように顔を上げた。過去の淵から引き上げられた者の、一瞬の空白。深紅の瞳が焦点を結ぶまでに、わずかな時間がかかった。


「続きは明日でいいですよ」


 リーリエの声は穏やかだった。


「……まだ途中だ」


「はい。でも——あなたの声が枯れています。目も——赤いです」


 カインが無意識に目元に触れた。気づいていなかったのだろう。語りに没頭するあまり、自分の身体の状態が見えなくなっている。


「今夜は休んでください。明日も——明後日も、私はここにいます。急ぐ必要はありません」


 カインの深紅の瞳が、リーリエを見た。


 リーリエを——見ていた。エルシェではなく。過去の亡霊ではなく。今、目の前にいる銀灰色の髪の少女を。その瞳に浮かぶのは——戸惑いに近い感情だった。過去に沈んでいた意識を、リーリエの声が引き戻したことへの。


「……すまない」


 カインの声は低く、掠れていた。


「謝らないでください。——少し待っていてくださいね」


 リーリエは書斎を出た。


 廊下は石壁の冷気が肌を刺す。吐く息が白く曇った。足元の石畳が裸足には冷たかったが、構わずリネン室に向かった。暗い部屋の中で手探りで毛布を一枚取ってきた。厚手の、温かい毛布。冬の夜の魔王城は石造りの壁から冷気が染み出し、暖炉の火が落ちれば急速に冷える。


 書斎に戻ると、カインは長椅子にもたれかかり、目を閉じていた。眠ったのではない——消耗が限界に達して、身体が動かないのだ。数百年ぶりに過去を語ることの代償は、想像以上に重い。


 リーリエは毛布をカインの肩にかけた。


 そっと。起こさないように——いや、カインは起きている。起きているが、抵抗しなかった。普段なら「いらない」と跳ね除けるだろう。だが今夜は——受け入れた。


 毛布の温もりがカインの肩を包む。リーリエの手が、カインの肩に触れた一瞬——カインの身体が微かに強張り、そしてゆるんだ。


 力が抜けていく。張り詰めていた糸が、一本だけほどけるように。


「……リーリエ」


「はい」


「明日——続きを話す」


「はい。聞きます」


 短いやり取り。けれどその中に、静かな約束があった。


 リーリエはカインの隣の椅子に座った。離れるつもりはなかった。カインが目を閉じている間、この場にいよう。一人にしない。


 暖炉の火が小さくなっていく。部屋が薄暗くなる。けれど——寒くはなかった。


 リーリエは自分の膝の上で手を組み、目を閉じた。


 カインの過去。初代聖女エルシェ。五百年前の世界。


 まだ語られていないことが、たくさんある。エルシェがどうなったのか。カインがなぜ「魔王」になったのか。そして——あの封じられた部屋に、何が眠っているのか。


 全てを聞こう。


 カインが話す限り、最後まで。


 リーリエの胸の奥で、あの名前のない痛みが微かに疼いた。カインがエルシェを語るときの、あの目。自分を通り抜けて過去に向かう、あの視線。


 でも——今は、それでいい。


 カインが話してくれている。五百年の沈黙を破って、自分に。それだけで——十分だ。


 暖炉の最後の薪が崩れる音がした。


 書斎の中で、二つの呼吸が静かに重なっていた。


 守る者と守られる者の境界が、少しずつ——溶け始めている夜だった。


 窓の外で、夜明けはまだ遠かった。けれど書斎の中には——微かな、けれど確かな温もりがあった。


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