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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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出会い

 出会いは——辺境の村だった。


 空の裂け目の報告が無視できなくなり、騎士団はようやく本格的な調査を決定した。カインは調査隊の一員として、北の辺境ヴィルデの森に派遣された。十名の騎士と補給係。馬を連ね、王都を発って五日。


 森に入って三日目の夕暮れ。


 カインは裂け目を見た。


 報告の通りだった。空に——亀裂が走っている。蒼穹を裂いた細い線。その向こうは暗い。世界のどんな闇よりも深く、底がない。覗き込めば魂ごと吸い込まれそうな——虚無。


 調査隊の騎士たちは言葉を失った。報告書の文字で読むのと、己の目で見るのとでは——全く違う。空が裂けている。世界の皮膚に穴が開いている。


「……これは」


 カインは剣の柄を握った。騎士としての訓練が身体を動かす。だが目の前の現象は、剣で対処できるものではなかった。空が割れている。それは自然現象ではない。世界そのものの境界が、綻び始めているのだ。


 裂け目の周辺には冷たい風が渦巻いていた。生命の温もりを奪う、凍てつく風。草木は枯れ、地面は灰色に乾いている。裂け目の影響範囲は——日に日に広がっているという。


 そのとき——光が走った。


 森の奥から、白い光の柱が立ち昇り、裂け目に向かって突き進んだ。光が裂け目に触れると、亀裂が収縮し始める。縮んで、縮んで——やがて閉じた。


 調査隊の騎士たちがざわめいた。「何だ今のは」「魔法か」「あの方角は——」


 カインは光の源を追った。調査隊から離れ、森を駆け、木々を掻き分け、開けた場所に出る。


 そこに——少女がいた。


 金色の髪。夕日に照らされて、燃えるように輝いている。麻の衣を纏い、両手を前に差し出した姿勢のまま、膝をついていた。力を使い果たした直後の、荒い呼吸。額に汗が浮かび、肩が上下している。


 少女が——顔を上げた。


 深い翠色の瞳が、カインを真っ直ぐに見た。


 疲弊しているはずなのに——その目には強い光が宿っていた。恐れも、戸惑いもない。ただ真っ直ぐに、目の前の現実を見据える意志。リーリエの静かな諦念とは正反対の——燃えるような生命力。


 少女は息を整え——笑った。


「あなた、騎士さん?」


 明るい声だった。裂け目を塞いだ直後とは思えないほど、朗らかで、軽やかで。まるで市場で道を尋ねるような気安さで。


「手伝ってくれる?」


 カインは——言葉を失った。


 裂け目を一人で塞ぐ力を持ち、疲弊しても笑い、初対面の騎士に手伝いを求める。膝から立ち上がろうとして足がもつれても、それすら気にしていない。汗で額に張り付いた金色の髪を、片手で払いのけた仕草に——不思議な気品があった。この少女は何者なのか。


「……あなたは」


「エルシェ。ただのエルシェよ。あなたは?」


「……カイン。カイン・ヴェルトール。聖騎士団所属だ」


「カインさんね。よかった、助けが来て」


 エルシェは膝から立ち上がった。足元がふらつく。カインは反射的に手を伸ばしたが、エルシェは自力で体勢を整えた。


「一人だと裂け目を塞ぐのに三日かかるの。その間ずっと集中しなくちゃいけないから、周りに何が来ても対処できなくて。この前は野犬に囲まれて大変だったのよ。二人なら——ああ、あなたは力は使えないのね」


 エルシェの翠色の瞳がカインを上から下まで見た。一瞬で、カインの体質を見抜いたらしい。


「魔力適性はないけど、身体は鍛えてあるわね。剣の構えも悪くない。じゃあ護衛をお願い。裂け目を塞いでいる間、私は無防備になるから。周りの獣とか、裂け目から出てくるものとか、追い払ってくれると助かるわ」


 矢継ぎ早に話す少女——エルシェに、カインは圧倒された。


 自分が剣を振るしか能がない騎士であることを瞬時に見抜き、それでも拒絶せず、「護衛」という役割を与える。上から目線ではない。ただ合理的に、互いにできることを分担しようとしている。この少女には人を動かす力がある、と直感的に理解した。


「……了解した」


 カインの返答は短かった。堅かった。エルシェはそれを聞いて、くすりと笑った。


「堅いわね、騎士さん」


 カインの語りが——書斎に戻った。


「それが——エルシェとの出会いだ」


 カインはその名を口にするとき、微かに間を置いた。五百年、何度も呼びかけ、何度も呑み込んだ名前。今、他者の前で口にすることの——重さ。


 リーリエは黙って聞いていた。杯の中身はもう冷めている。けれど杯を離す気にはならなかった。手の中にあるものを握っていたかった。


「……明るい方だったんですね」


「ああ。リーリエ、お前とは——正反対だった」


 カインの声に、苦い笑みが滲んだ。


「エルシェは笑う。よく笑う。疲れていても、追い詰められていても。笑って、前を向いて、周りを巻き込んで走る。そういう——やつだった」


 リーリエは静かに頷いた。胸の奥に、名前のつかない小さな痛みが生まれた。カインがエルシェを語るとき、声の温度が変わる。少しだけ——柔らかくなる。五百年分の記憶が声に溶けて、暖かくなる。


 だがリーリエはその痛みに名前をつけなかった。今はただ、聞く。


 カインは語りを続けた。


「エルシェの力は上層部の目にも止まった。裂け目を塞げる唯一の存在。その価値を、教会の上層部は即座に見抜いた。エルシェは正式に『聖女』の称号を与えられ——俺が、彼女の護衛に任命された」


 正式な辞令だった。エルシェを護り、共に各地の裂け目を塞ぐ任務。


「護衛なんて大げさね」


 エルシェは辞令を聞いて笑った。大聖堂の回廊で、日差しの中で。


「でも一緒にいてくれるなら嬉しいわ。カインさん、あなた真面目だから安心できるもの」


「……俺は任務として——」


「任務でもいいわよ。一緒にいてくれるなら、理由は何でも」


 エルシェはそう言って、金色の髪を風に靡かせた。


 カインは——困惑した。こういう人間は、騎士団にはいなかった。命令と服従で成り立つ組織の中で、エルシェはどこにも属さず、誰にも支配されず、自分の意志で立っている。


 眩しかった、とカインは思った。


 あの頃の自分には——眩しすぎた。


 カインの語りが止まった。


 書斎の暖炉が微かに音を立てた。


 リーリエは——カインの横顔を見ていた。暖炉の光に照らされた深紅の瞳が、遠い場所を見ている。今ここにいない人を——見ている。


 その視線に気づいたリーリエの胸に、また小さな痛みが走った。


 だがリーリエは微笑んだ。


「……素敵な出会いですね」


 カインが我に返ったように、リーリエを見た。


「……そうか」


「はい。——続きを、聞かせてください」


 カインは頷いた。


 過去の扉は開いたまま、まだ閉じない。エルシェとの日々が——その先にある。


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