世界が若かった頃
数百年前——世界はまだ若かった。
カインの声が語る過去は、リーリエの知る世界とはまるで違っていた。
結界がない。空は果てしなく広がり、地平線の彼方まで遮るものがない。太陽は今より近く感じられ、風には甘い草の匂いが混じっていた。夜には満天の星が降り注ぎ、誰もが空を見上げることを恐れなかった。空は裂けるものではなく、ただ美しいものだった——あの頃は。
王都アルトハイムは活気に満ちていた。石畳の大通りに人間と魔族が入り混じり、露店が連なり、子どもたちが走り回る。魔族の商人が香辛料を広げれば、人間の職人が鍛えた刃物が隣に並ぶ。種族の垣根は今よりずっと低く、共存は当たり前の光景だった。
信仰は穏やかなものだった。教会はまだ権力機構ではなく、祈りの場だった。大聖堂では毎朝の祈りが捧げられ、人々は感謝とともに日々を送っていた。聖女の制度も、聖なる炉も——まだ存在しない。
その王都の一角に、聖騎士団の駐屯地があった。
若きカイン・ヴェルトールは、朝の訓練場に立っていた。
二十歳そこそこ。黒髪を短く切り揃え、瞳は今と同じ深紅——だがその色は、まだ魔力に染まる前の、生まれ持った深い茶に近い赤だった。日に焼けた肌。引き締まった身体。剣を振る姿勢には一分の隙もなく、木剣が空気を裂く音が訓練場に響いていた。
まっすぐな姿勢。真っ直ぐな目。信仰を疑わず、剣に己を捧げた若者の、愚直なまでの実直さ。
「カイン、また朝一番か。お前が来る頃にはもう日が昇ってるんだが」
同僚の騎士が笑いながら訓練場に入ってくる。赤毛の大男。名はアルベルト。カインとは同期入団の仲だった。
カインは木剣を下ろし、額の汗を拭った。
「早く来ないお前が悪い」
「はいはい。真面目だな、相変わらず。もう少し力を抜けよ。女の子にもそんな調子か?」
「……黙って素振りしろ」
「おっと、図星」
アルベルトが笑い、訓練場に並ぶ。二人で素振りを始める。木剣の音が重なり、朝日が訓練場を照らす。
同僚たちとの何気ないやり取り。笑い合い、汗を流し、夕方には酒場で杯を傾ける。食堂では騎士団の料理番が作った質素な食事を分け合い、夜には宿舎の中庭で星を眺めた。
平凡で、けれど確かな日々。
カインにはそれで十分だった。剣を振り、民を守り、仲間と笑う。聖騎士としての使命に誇りを持ち、この穏やかな世界が永遠に続くと——信じていた。
——けれど。
カインの語りの声が、微かに翳った。
「辺境から、奇妙な報告が届き始めたのはその頃だ」
辺境の村から騎士団に伝令が走った。空に裂け目が見える、と。
「裂け目?」と訓練場で報告を受けた上官が眉を寄せた。白髪の老将。名をガルデンベルク卿という。温厚だが判断の鋭い人物で、カインが尊敬する数少ない上官だった。
「はい。北の辺境、ヴィルデの森の上空に——空が割れたような亀裂が現れたと。周辺の村人たちが怯えております」
「大げさな。雷雲の見間違いだろう。この時期は嵐が多い。辺境の民は想像力が豊かだからな」
ガルデンベルク卿は報告書を棚に放り込んだ。
カインはその報告を聞いていた。訓練場の隅で水を飲みながら、伝令の言葉を反芻していた。気にはなった——空が割れるとは、どういうことか。だが上官が取り合わないのなら、末端の騎士に出る幕はない。
そう思って、忘れようとした。
だが報告は、止まらなかった。
北の辺境だけではない。東の海岸線、西の山脈地帯、南の砂漠の縁——世界の端々から、同じ報告が届く。空に裂け目が見える。裂け目の向こうに、何かがいる。
「得体の知れないものが、裂け目から覗いている——」
その表現が、伝令の報告の中で繰り返された。
騎士団の上層部は困惑した。確認のために派遣された偵察隊は、裂け目を目視で確認できなかった。辺境の民の恐怖が生んだ幻覚ではないか、と結論づけようとした。
だが——裂け目を見た者たちの証言には、奇妙な一致があった。
裂け目は夜に広がる。月のない夜ほど大きくなる。裂け目の近くでは動物が逃げ、鳥は飛ぶことを拒む。裂け目から覗くものは、形を持たない。ただ——暗い。世界のどんな闇よりも暗い、底のない暗黒。そしてその闇から——冷たい風が吹く。生命の温もりを吸い取るような、凍てつく風。
カインは訓練の合間に報告書を読み返した。書庫に足を運び、古い記録を漁った。似たような現象が過去にあったかどうか。だが——見つからなかった。空の裂け目など、歴史上の記録にはない。
胸の奥に、名前のつかない不安が芽生えていた。
「……気になるのか」
アルベルトが訓練場で声をかけた。
「少しな」
カインは水の入った革袋を口に当て、一口含んだ。冷たい水が喉を滑り落ちる。空の裂け目。報告書に記された辺境の民の恐怖が、訓練場の陽光の下でも消えなかった。
「お前は真面目すぎるんだ。辺境の噂なんぞ、毎年一つや二つあるだろう。去年は南の砂漠で竜を見たって騒ぎがあったが、結局はでかいトカゲだった」
「……そうだな」
カインは木剣を握り直した。
そうだ。きっと大したことではない。世界は穏やかで、空は広く、明日も変わらず日は昇る。
——そう信じていた。
あの日までは。
カインの語りが途切れた。
書斎の暖炉の火が爆ぜ、現在に引き戻される。リーリエは杯を両手で包んだまま、静かにカインを見つめていた。
「……昔はもっと素直だったんですね」
リーリエの声が、静かに挟まれた。杯の縁に唇を寄せたまま——けれど飲んではいない。カインの語りに集中していて、手の中の杯はただ温もりを伝える道具になっていた。
その声は穏やかだった。責めるのでも、からかうのでもない。ただ——若きカインの姿を、温かく受け止める声。
カインは一瞬、虚を突かれた表情をした。
「……何の話だ」
「朝一番に訓練場に来て、同僚と笑い合って。今のあなたからは——少し想像がつきませんでした」
カインの唇が、微かに動いた。苦笑——とも呼べないような、かすかな表情の揺らぎ。
「……五百年も経てば、人は変わる」
「でも——根っこは変わらないと思います」
リーリエが言った。
「真面目で、心配性で、誰かを守りたい人。それは——今も同じです」
カインは答えなかった。ただ暖炉の火を見つめ、数秒の沈黙の後——語りを再開した。
「……辺境の報告が、噂では済まなくなるまで、そう長くはかからなかった」
過去の扉が、再び開く。
穏やかだった世界に、最初の影が差し始めていた。
リーリエは杯の中に視線を落とした。冷めかけた飲み物の表面に、暖炉の炎が映り込んでいる。五百年前の穏やかな世界と、今この瞬間の書斎が、不思議と重なって見えた。




