語る決意
夜が深まるほどに、記憶は鮮明になる。
カインは私室の窓辺に立ち、星のない冬空を見上げていた。闇に溶けた雲が低く垂れ込め、世界を覆い隠している。まるで——数百年前の、あの日の空のように。
大司教の言葉が、耳の奥にこびりついていた。
教会からの書簡。レオンハルトが昨夜持ってきた、あの一通。大司教が示唆した内容は明白だった——カインの正体を世に暴露する、と。「魔王」の仮面の裏にある真実を、教会にとって都合のよい形で歪めて公にする、と。
五百年。
五百年もの間、この秘密を胸の底に沈めてきた。誰にも語らず、誰にも問われず。語る相手がいなかったからではない——語れば、あの日の傷口が開くからだ。
カインは窓枠に手をついた。左手の甲に刻まれた古い紋章の痕跡が、手袋の下で微かに疼いた。
「……そろそろ、潮時か」
呟きは誰にも届かない。部屋には暖炉の火だけが揺れている。
他人の口から語られるくらいなら——歪められ、嘲笑われ、利用されるくらいなら。
自分の口で。自分の言葉で。
せめて、あの子の前では——嘘をつきたくない。
カインは目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、銀灰色の髪。薄い青紫の瞳。穏やかで、虚ろで、けれど最近は——少しだけ、光が宿り始めた瞳。
リーリエ。
あの子には——話さなければならない。
カインは踵を返し、部屋を出た。
長い廊下を歩く。魔王城の夜は静かだ。従者たちは既に休んでいる。自分の足音だけが石の床に反響する。壁に掛けられた燭台の火が、通り過ぎるたびに揺れた。影が伸び、縮み、また伸びる。五百年分の影が、背中に張り付いているようだった。
リーリエの部屋の前で——足が止まった。
扉を叩こうとした手が、一瞬だけ震えた。
馬鹿らしい、と思った。五百年を生きた男が、扉一枚の前で躊躇している。数百の異形を一人で斬り伏せる腕を持ちながら、木の扉一枚の前で足が止まる。
だが——この扉を叩けば、もう戻れない。封じてきた記憶の蓋が開く。あの日の光が、あの日の声が、あの日の——届かなかった手が、全て蘇る。
それでも。
カインは扉を叩いた。
「——リーリエ」
数秒の間。衣擦れの音がして、扉が開いた。
リーリエが立っていた。寝巻きの上に薄手の上着を羽織り、銀灰色の髪が肩に流れている。眠りに就く前だったのだろう——けれどその瞳は覚めていた。まるで、この訪問を予感していたかのように。
「カインさん」
リーリエの声は穏やかだった。驚きはなかった。
「……書斎に来てくれ。話さなければならないことがある」
カインの声は低く、硬かった。自分でもわかる。普段より言葉が詰まっている。
リーリエは一瞬だけカインの目を見つめた。深紅の瞳の奥に——揺れがあることを、見たのかもしれない。
「はい」
頷きは静かだった。問い返さない。理由を訊かない。ただ——ついていく。
二人は無言で書斎に向かった。
書斎の暖炉にはまだ火が残っていた。カインが薪を足すと、炎が勢いを取り戻し、部屋を暖めた。革張りの長椅子に向かい合うように座る。
リーリエが腰を下ろすと——書斎の扉が微かに開き、盆に載った温かい飲み物が差し入れられた。湯気の立つ二つの杯。蜂蜜と生姜の香り。
リュカの気配だった。姿は見せない。ただ飲み物だけを置いて、音もなく去っていく。
リーリエが杯を手に取り、一口飲んだ。蜂蜜の甘さが舌の上で溶け、生姜の辛味が喉の奥をそっと温める。
「……温かいです」
小さく呟いた。その一言が、凍えた書斎の空気をほんの少しだけ柔らかくした。
カインも杯を手に取ったが、口はつけなかった。両手で包み込むように持ち、湯気を見つめている。
沈黙が降りた。
暖炉の火が爆ぜる音。窓の外で風が鳴る音。それだけが書斎を満たしている。
カインは口を開いた。閉じた。唇の端を噛み、暖炉の火を一瞬見つめてから——もう一度開いた。
「……俺の本当の名を知りたいか」
声が掠れていた。
リーリエは杯を膝の上に置き、カインを見た。虚ろさの消えた瞳が、真っ直ぐにカインを捉えている。
「聞かせてください」
静かな声だった。求めるのでも、強いるのでもない。ただ——扉が開くのを、待っている声。
「あなたが話したいと思ったときに——聞かせてください」
カインの喉が鳴った。
話したいと思ったとき。その言葉は——五百年の間、一度も聞いたことがなかった。誰もカインに「話していい」とは言わなかった。語る相手がいなかったから。語れる場所がなかったから。
だが今——目の前に、聞いてくれる人がいる。
カインは杯を脇に置いた。背筋を伸ばし、リーリエの目を見た。
「——数百年前。この世界にはまだ、結界がなかった」
声は低く、静かだった。暖炉の火に照らされたカインの深紅の瞳が、遠い過去へと沈んでいく。
「空は今より広く、地平線の向こうには何も遮るものがなかった。人間と魔族が同じ市場で肩を並べ、季節の移ろいだけが時を刻んでいた時代だ」
カインの目が——ここではない場所を見ている。
「俺は——その時代に、聖騎士として生きていた」
リーリエの手が、杯の上で微かに強張った。
聖騎士。
その言葉の重さを、リーリエは知っている。レオンハルトが語った伝承——初代聖騎士。聖女を守り、やがて歴史から消えた者。
カインの目が、リーリエに戻った。深紅の奥に、覚悟の光が灯っている。
「俺の本当の名は——カイン・ヴェルトール。初代聖騎士団の、団長だった男だ」
暖炉の火が、大きく爆ぜた。
リーリエは——息を呑んだ。
声は出なかった。ただ、目の前の男を見つめていた。「魔王」と呼ばれた男。不器用で、過保護で、手の震えを隠すように腕を組む男。
その男が——五百年前の、初代聖騎士。
世界がぐらりと傾いたような感覚があった。けれど——不思議と、恐怖はなかった。むしろ、ずっと見えなかった輪郭が、今初めてはっきりと浮かび上がったような——そんな感覚だった。
カインの声が続いた。低く、途切れがちに。しかし確かに。
「全てを話す。……長い話になる」
リーリエは杯を両手で包み、頷いた。
「ここにいます」
短い言葉だった。けれどその中に——「何があっても、最後まで聞きます」という誓いが込められていた。
カインは一つ、息を吐いた。
カインの深紅の瞳が——変わった。遠い過去に沈んでいく。暖炉の炎が瞳の中で揺れ、五百年前の光景と重なっていく。
リーリエは杯を両手で包み、息を殺した。
カインが語り始める。五百年の秘密を。「魔王」の仮面の下にある、一人の聖騎士の物語を。
そして——五百年の沈黙が、破られた。




