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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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教えてください

 朝が来た。


 冬の朝。空気が冷たく、窓に霜が降りている。リーリエは目を覚まし、顔を洗い、身支度を整えた。鏡を見ると——顔色が少し良くなっていた。炉から離れて数日。身体の消耗が回復し始めている。


 朝食の広間に向かった。


 マリカのスープの匂いがする。パンが焼ける匂い。フィルが食器を並べている。リュカが大きなあくびをしている。ヴェルナーが新聞のような報告書を読んでいる。レオンハルトが慣れない様子でテーブルについている。


 そして——カインが上座にいた。


 いつもの席。いつもの姿勢。腕を組んで、目を閉じている。


 けれど——いつもと違った。


 リーリエにはわかった。一緒にいる時間が長くなればなるほど、カインの小さな変化が見えるようになった。


 カインの手が、微かに震えていた。テーブルの下で、拳を握りしめている。力んでいる。腕を組んでいるのは——手の震えを隠すため。


 そして——目の下に隈がある。薄い隈。夜を越えてきた男の顔。眠れなかったのだ。


 リーリエは黙って席についた。マリカがスープを置いてくれた。温かい。


「いただきます」


 食べ始めた。


 カインもスープを飲み始めた。けれど——食が進んでいない。スプーンを口に運ぶ回数が少ない。いつもなら黙々と食べる男が、今朝は——遅い。


 朝食の間中、カインの表情は変わらなかった。無愛想。いつも通り。けれどリーリエにはわかる。「いつも通り」を演じていることが。


 何があったのか。


 昨夜——何かがあった。レオンハルトが書斎を訪ねていたのは知っている。その後、カインが封じられた部屋の方向に歩いていく足音も聞いた。


 朝食が終わった。皿の音、水の音、マリカが食器を洗う音が厨房から聞こえてくる。日常の音。この音がどれほど尊いか——地下室で知った。従者たちが片付けを始める。レオンハルトが「少し外の空気を」と言って出ていった。カインが立ち上がろうとした。


「カインさん」


 リーリエが呼び止めた。


 カインの動きが——止まった。


「少し——お話しできますか」


「……今か」


「はい」


 カインは一瞬だけ躊躇した。リーリエにはそれが見えた。普段は即答する男が——一拍、間を置いた。


「……中庭に行くか」


 二人で中庭に出た。冬の朝。白い息が漂う。霜が降りた石畳がきらきら光っている。


 ベンチに並んで座った。昨日もここで——結界の話をした。


 リーリエは手袋をはめた手を膝の上に置いた。


 カインは黒い外套の中で腕を組んでいた。


 しばらく——無言だった。二人の呼吸だけが白い霧を作り、冬の空気に溶けていく。


 冬の風が吹いた。リーリエの銀灰色の髪が揺れた。カインの外套の裾が翻った。


「カインさん」


「……何だ」


「何かあったんですよね」


 カインが——視線を逸らした。


「……何の話だ」


「昨夜から——様子がおかしいです。朝食のとき、手が震えていました。お茶のカップを持つ手が、いつもより力んでいました」


 カインの唇が——微かに動いた。反論しようとして、できなかった。


「教会のことで……あなたの過去に関わることではありませんか」


 リーリエの声は穏やかだった。問い詰めるのではない。責めるのでもない。ただ——知りたい、という願い。


 カインは答えなかった。長い沈黙。


 中庭に鳥の声が響いた。冬の小鳥。凍りつくような空気の中で、小さな命が歌っている。


 リーリエは——カインの手に触れた。


 手袋越しでも、カインの拳の硬さが伝わってきた。冷たい拳。力を込めすぎて、指の関節が白くなっている。手袋をはめた手が、カインの拳に重なった。


 カインの拳が——硬い。冷たい。力んでいる。五百年分の何かを、握り込んでいる。


「あなたの過去を——教えてください」


 リーリエが言った。


 カインの肩が——強張った。


「あなたが何者であっても——私は、ここにいます」


 声は震えていなかった。リーリエの声はいつも通り穏やかで、静かで、けれど確かだった。


 何者であっても。


 その言葉が——カインの胸を、深く打った。


 カインはリーリエの手を見下ろした。小さな手。カインの拳の上に載った、小さな手。教会の城塞で炉に命を吸われ、死にかけた少女の手。けれど今——その手は温かかった。


 カインの目が——揺れた。


 深紅の瞳に、蝋燭の炎のような揺らぎが生まれた。五百年間——誰にも見せなかった揺らぎ。


「……いつか話すと言ったな」


「はい」


「少し——時間をくれ」


 カインの声は低かった。掠れていた。


「話す。全て——話す。だが今は——まだ——」


 言葉が途切れた。


 リーリエは頷いた。


「待ちます」


 短い言葉。けれどその中に——全ての信頼が込められていた。


 急がない。問い詰めない。ただ——待つ。あなたが話せるときまで。


 カインは目を閉じた。


 リーリエの手が、カインの拳の上にある。温かい。小さい。けれど——確かに、そこにある。


 あの日は——カインがリーリエの手を掴んだ。崖から落ちるリーリエの手を。「死ぬな」と。一方的に。


 今は——リーリエがカインの手を取っている。「ここにいます」と。対等に。


 二人の手が重なったまま、冬の風が吹いた。


 中庭の霜が、朝日に溶けていく。水滴が石畳を濡らし、光を反射して輝いた。冬の朝の空気が、二人の間で静かに温まっていく。


 数百年の秘密が——ようやく語られるときが近づいている。


 カインの手が——リーリエの銀灰色の髪に、触れた。そっと。訓練場で砂埃を払ったときと同じ、繊細な仕草で。


「……リーリエ」


 名前で呼んだ。「お前」ではなく。


「話すことがある。俺の……五百年のことを」


 リーリエの心臓が速くなった。ずっと待っていた言葉。「いつか話す」と約束してくれた「いつか」が——今、来ようとしている。


「はい」


 リーリエは頷いた。声は震えなかった。


 カインの深紅の目に——覚悟の光が宿っていた。五百年間隠し続けた真実を語る覚悟。初代聖騎士としての過去を。初代聖女への想いを。そして——リーリエへの感情の正体を。


 まだ語られていない。まだ——これからだ。


 けれどカインが「話す」と言ったこと。その一言が——全てを変え始めていた。


 冬の窓の外で、雪解けの水が一滴、軒先から落ちた。その水滴が石畳に落ちる音が、静かな中庭に響いた。ぽたり。春を告げる、最初の一滴。春は——近い。


 第三部「教会の刃」——完。


 第四部「初代聖女の遺言」へ続く。


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