凍りつく顔
夜が更けても、カインは書斎を出なかった。
蝋燭が一本燃え尽き、二本目に火を移した。窓の外は漆黒。月すら雲に隠れている。
カインは椅子に座り、目を閉じていた。
大司教の計画。「魔王の正体——元聖騎士にして初代聖女を見殺しにした裏切り者」を世界に公表する。
見殺しにした。
その言葉が——カインの胸を、五百年前の刃のように貫いた。
見殺しにしたのではない。救えなかったのだ。間に合わなかったのだ。手を伸ばした。届かなかった。
けれど——結果は同じだ。聖女は死んだ。カインは救えなかった。教会がどう記録しようと——カインが聖女を守れなかったという事実は、変わらない。
カインは目を開けた。
書斎の壁に地図が貼られている。各地の結界の状態を示す地図。赤い印が増えている。結界の穴。災厄の侵入点。リーリエがいない間に——世界は確実に壊れかけている。
地図から目を逸らした。
問題は結界ではない。今夜の問題は——リーリエだ。
大司教が正体を公表すれば、リーリエは知る。カインが初代聖騎士であること。初代聖女を「救えなかった」こと。そして——初代聖女への後悔が、カインがリーリエを守る動機の根底にあること。
「あいつは俺に聞くだろう」
カインが呟いた。暗い書斎の中で、蝋燭の炎に向かって。
「『あなたは私を見ているの? それとも初代聖女を?』と」
その問いに——答えられるか。
カインは自分の胸に手を当てた。
リーリエを守りたい。それは本当だ。
けれど——その「守りたい」の中に、どれだけの贖罪が混ざっているのか。初代聖女を失った後悔が、リーリエへの感情にどれだけ影を落としているのか。
わからない。
自分でもわからない。
リーリエを見ているとき——確かに、リーリエを見ている。銀灰色の髪。薄い青紫の瞳。ドライなユーモア。静かな強さ。初代聖女とは全く違う。性格も、話し方も、仕草も。
けれど——リーリエが笑うとき。ふっと力が抜けたような笑みを見せるとき。目尻が下がり、唇の端が上がるあの一瞬。一瞬——ほんの一瞬、初代聖女の面影がよぎる。
それは——何だ。
重なっているのか。初代聖女とリーリエが、カインの中で。
だとしたら——リーリエに対して、誠実でいられるのか。
カインは椅子から立ち上がった。膝が少し軋んだ。一晩中座り続けた身体が、重く感じる。書斎を出た。暗い回廊を歩いた。自分の足音が石壁に反響して、二人分の足音のように聞こえた。五百年間——いつも一人分だった足音。
足が——ある場所に向かっていた。
城の奥。使われていない一角。いつも鍵がかかっている扉の前。
封じられた部屋。
初代聖女の遺品が保管されている部屋。日記。研究ノート。私物。五百年間、カインが一人で守り続けてきたもの。
カインは扉の前に立った。鍵は持っている。いつも持ち歩いている。けれど——開けなかった。
扉に手を当てた。冷たい木の感触。五百年の歳月で滑らかになった木目が、掌に馴染む。この扉に何千回触れただろう。開けることなく、ただ触れて——語りかけて。
「お前は——どう思う」
独白。
扉の向こうにいるのは——もう誰もいない。遺品があるだけだ。初代聖女の魂は炉の中で眠っている。ここには——何もない。
けれどカインは五百年間、この扉に語りかけてきた。戦いの前に。眠れない夜に。世界が重くなるたびに。
「俺は——あいつを守りたい。リーリエを。それは本当だ」
声が低かった。
「だが——お前への後悔と、あいつへの感情の境目がわからない。混ざっている。五百年分の後悔が——全部、あいつに向かっている気がする」
沈黙。
当然だ。答えは返ってこない。
「あいつに嘘をつきたくない。だが——正体が暴かれれば、あいつは俺の全てを疑うだろう。守られていたこと。そばにいたこと。お茶を淹れたこと。全部——贖罪だったのかと」
カインの拳が——扉を打った。
軽く。けれど——抑えきれない感情の発露。
「……どうすればいい」
答えは——返ってこなかった。
カインは扉から離れた。背を向けた。
回廊を歩き始めた。暗い回廊。足音だけが響く。
書斎に戻る途中で——リーリエの部屋の前を通った。扉の隙間から、微かな灯りが漏れている。まだ起きている。
足が——止まった。
扉を叩こうとして——やめた。
今のカインでは——リーリエの前に立てない。嘘をつくことも、真実を話すこともできない。中途半端な自分では。
足を進めた。リーリエの部屋を通り過ぎた。
書斎に戻った。
蝋燭の炎が揺れている。二本目の蝋燭も、もう半分まで燃えている。
カインは椅子に座った。
リーリエの護符を胸のポケットから取り出した。教会の城塞で回収した、リーリエの護符。まだ返していなかった。
小さな石の護符。カインが魔力を込めて作ったもの。
握りしめた。
冷たい石が、掌の中で温まっていく。リーリエの体温が染み込んでいたはずの石が、今は冷たい。けれどカインの体温が少しずつ移っていく。
——明日、返そう。
護符を返して——その時に。
何を言えるか——わからない。けれど、逃げてはいけない。
五百年間逃げ続けてきた。初代聖女の死から。自分の感情から。過去から。
もう——逃げ続けることは、できない。
蝋燭が揺れた。
カインの影が壁に映っている。大きな影。五百年の重さを背負った影。
その影が——微かに、震えていた。蝋燭の炎が揺れるたびに、影も揺れた。風のせいだけではない。カインの身体自体が——震えている。
五百年間、この問いから逃げてきた。初代聖女を「あの人」として記憶の中に封じ、贖罪だけを行動原理にしてきた。リーリエを守ることも——贖罪の一部だった。そのはずだった。
しかし地下室でリーリエを抱き上げたとき——胸に走ったあの感情は、贖罪ではなかった。もっと——熱い何か。もっと——怖い何か。
失いたくない。
その感情を認めてしまえば——全てが変わる。守る理由が。戦う理由が。生きている理由が。
五百年分の贖罪の鎧を脱いで、その下にある感情と向き合わなければならない。
蝋燭が三本目に移った。机の上に蝋の滴りが凍りつき、白い山を作っている。窓の外が白み始めている。一晩中、答えの出ない問いと向き合い続けた。
けれど——答えが出ないこと自体が、答えなのかもしれない。贖罪だけでは説明できない感情がある。それを認めること。それが——第一歩なのだ。




