最後の切り札
教会の城塞。大司教の執務室。
グレゴリウス・ヴァン・オルデンは、机に向かっていた。
窓の外は暗い。夜。蝋燭の灯りが机の上の書類を照らしている。蝋の溶ける甘い匂いが執務室に漂い、窓の隙間から忍び込む冬の風が灯りを揺らしていた。報告書が積み重なっている。聖女の奪還失敗。聖騎士団長の離反。災厄の侵入拡大。教会軍の消耗。
どれも——想定内だった。
グレゴリウスは報告書を脇に寄せ、机の引き出しを開けた。奥から——古い文書の束を取り出した。
黄ばんだ羊皮紙。教会の極秘記録庫に保管されていたもの。大司教だけがアクセスできる、最高機密の文書。
表紙には——こう記されていた。
「初代聖騎士カイン・ヴェルトールの追放に関する記録」
羊皮紙の表面に指を滑らせた。古い紙特有の乾いた感触が、指先に伝わる。五百年の歳月が紙を黄ばませ、インクを褪せさせている。けれど文字は読める。教会の記録官が丁寧に書き写した、端正な文字。
グレゴリウスはゆっくりと文書を開いた。何度も読んだ文書だ。内容はすでに暗記している。けれど今夜は——改めて確認する必要があった。
文書の内容。
五百年前、初代聖騎士カイン・ヴェルトールは聖女の死を止めようとした。聖女が自ら炉に身を投じようとしたとき、カインは炉の間に踏み込み、聖女を引き止めようとした。
それは——教会の視点では「聖女の崇高な犠牲を妨害した不敬行為」だった。
カインは追放された。教会から、国から、人の世界から。
そして教会は歴史を書き換えた。「初代聖騎士は堕落して魔に堕ちた」「魔王カインは人類の敵」。五百年間——その嘘の上に、教会は建ってきた。
グレゴリウスは文書を閉じ、机の上に置いた。
その上に——もう一枚の文書を重ねた。自分が書いたもの。今夜書き上げたばかりの、新しい文書。
「魔王の正体について——元聖騎士にして、初代聖女を見殺しにした裏切り者」
これを——世界に公開する。
各国の王侯貴族に。教会の信徒たちに。世界中に。
「魔王カインの正体は、五百年前に聖女を見殺しにした裏切り者である」——そう公布すれば、カインの味方をする者はいなくなる。聖女を守ろうとする者でさえ、「聖女を見殺しにした男」を信じるだろうか。
「これを使うときが来ましたか」
グレゴリウスが呟いた。声は——いつも通り穏やかだった。
部下が入室した。
「大司教様。各国への書状の準備が整いました」
「結構です。ただし——まだ発送はしないでください。タイミングを計ります」
「畏まりました」
部下が退出した。
グレゴリウスは蝋燭の炎を見つめた。
この切り札は——軍事力ではない。情報だ。
カインを剣で倒すことはできない。あの男は五百年の修練を積んだ怪物だ。教会の全戦力を投入しても、一対一では勝てない。
けれど——情報は、剣よりも鋭い。
カインの正体が世界に知られれば。「魔王」が実は「聖女を見殺しにした元聖騎士」だと知られれば。カインの味方は消える。レオンハルトでさえ——「聖女を見殺しにした男」の傍にい続けるだろうか。
そして何より——リーリエ。
リーリエがカインの正体を知れば。カインが「初代聖女の代わり」としてリーリエを守っていたと知れば。
あの少女の信頼が——崩れる。
グレゴリウスはそこまで計算している。
場面が変わる。
魔王城。
夜。カインが書斎にいるところに、レオンハルトが訪ねてきた。
「カイン。報せがある」
「何だ」
「かつての部下から密書が届いた。教会内部に——俺を支持してくれている者がまだいる。そこからの情報だ」
レオンハルトが一枚の紙をカインに渡した。
カインが読んだ。
表情が——凍った。
「大司教が——」
「ああ。魔王の正体を、世界に公開しようとしている」
紙に書かれていた内容。「大司教が各国への書状を準備している。内容は魔王の正体について。古い記録を根拠に、魔王が元聖騎士であること、初代聖女を見殺しにしたことを公表する予定」
カインの手が——紙を握りしめた。指の関節が白くなるほどの力。紙が軋み、乾いた音を立てた。
紙が皺くちゃになった。テーブルの上の蝋燭が、カインの怒気に当てられたように炎を揺らした。
「……知ったか」
「大司教はあなたの正体を確信している。城塞での剣技を見た。もう隠し通せない」
カインは紙をテーブルに置いた。皺くちゃの紙が、蝋燭の灯りに照らされている。
正体が暴かれる。
五百年間——守ってきた秘密が。
カインの顔には、何も表れていなかった。いつもの無表情。石のように動かない顔。けれど——手が震えていた。テーブルの下で。拳を握りしめて。
「カイン。——お前は」
「……少し、一人にしてくれ」
レオンハルトは頷き、書斎を出た。
一人になったカインは——蝋燭の炎を見つめた。
正体が暴かれる。
それ自体は——耐えられる。五百年間、「魔王」と呼ばれてきた。汚名には慣れている。
問題は——リーリエだ。
リーリエに知られる。カインが何者で、何のためにリーリエを守っているのか。
初代聖女を救えなかった男が——贖罪として、最後の聖女を守っている。
リーリエは——聞くだろう。
「あなたは——私を見ているの? それとも初代聖女を?」
その問いに——カインは、答えられるのか。
蝋燭の炎が揺れた。
カインの影が、壁に大きく揺れた。
大司教の執務室は、嵐の後のように静かだった。聖女の奪還は失敗した。聖騎士団長は離反した。教会の威信に傷がついた。
けれどグレゴリウスは動揺していなかった。動揺は——三十年前に捨てた。最初の聖女を炉に送った日に。あの日以来、感情は判断の邪魔にしかならないと決めた。
しかし——リーリエの言葉が、耳の奥に残っていた。「私は人間です」。あの声。あの目。凍結された感情の下にある、生きた魂の声。
それを聞いたとき、胸の奥で何かが——ほんの微かに——軋んだ。三十年前に封じた感情の残滓が、一瞬だけ顔を出した。
すぐに押し込めた。計算で。論理で。「一人の命で万人を」。その論理が——心の蓋になっている。
蓋を外すことは——できない。外せば、三十年間の全てが崩壊する。自分が送った聖女たちの顔が蘇る。名前を覚えている。三人分の名前。三人分の笑顔。三人分の——最期。
グレゴリウスは窓の外に目を向けた。暗い空。星もない。この暗闇の向こうに、魔王城がある。カインとリーリエがいる。あの二人の間にある信頼を——これから壊す。それがグレゴリウスの次の一手だった。




