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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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災厄の足音

 報せは朝食の最中に届いた。


 ヴェルナーが広間に入ってきた。いつもの落ち着いた足取りではなかった。速い。紙の束を抱えている。


「カイン様。各地から緊急の報告が入っています」


 カインが箸を置いた——いや、この世界に箸はない。フォークを置いた。


「言え」


「東部辺境——フェルト村が壊滅しました。災厄の獣の群れが結界の穴から侵入し、村を蹂躙。住民は事前に避難していたため死者はありませんが、村は全壊です」


 リーリエの手が——止まった。スープを掬うスプーンが、皿の中で止まった。スープの湯気が、静かに立ち上っている。つい先ほどまで温かさに安堵していた身体が、一瞬で冷えた。


「北部——マーレン地方の結界に新たな穴が確認されました。直径にして百メートル以上。そこから中型の災厄獣が複数侵入しています」


「西部——」


「もういい。要約しろ」


 カインが遮った。


 ヴェルナーが眼鏡を押し上げた。


「結界の弱体化が加速しています。一ヶ月前と比較して、侵入件数は三倍。穴の数は五倍。このままの速度で弱体化が進めば——三ヶ月以内に、主要都市圏の結界も維持できなくなります」


 広間に沈黙が落ちた。


 フィルがリーリエの袖を握った。不安そうな顔。リュカが腕を組み、眉間に皺を寄せている。マリカが厨房の入口で手を止めている。


 リーリエは——スプーンを皿に戻した。


 三ヶ月。


 結界は、リーリエの命を燃料にして維持されている。リーリエが炉に戻れば——結界は強化される。災厄の侵入は止まる。村は壊滅しない。人は死なない。


 「私が炉に戻れば——」


 その思考が——自動的に浮かんだ。


 リーリエは唇を噛んだ。


 違う。


 数日前に大司教に言ったばかりだ。「もう、自分を燃料にはさせません」と。


 けれど——村が壊滅した。人が避難した。結界が壊れ続けている。リーリエが炉にいないから。リーリエが「拒否した」から。


 その事実が——重い。


「レオンハルト。教会軍の動きは」


 カインがレオンハルトに向けて聞いた。


「教会軍も災厄への対応に追われているはずだ。リーリエの奪還に割ける戦力は——当面は限られるだろう」


「それは朗報ではあるが——災厄の被害が拡大しているのは、朗報ではない」


「ああ。……その通りだ」


 レオンハルトが苦い顔をした。教会にいた頃は、結界の維持が聖女の命を燃料にしていることを知っても、「必要な犠牲」だと受け入れた。けれど今——その「犠牲」の顔と名前を知っている。リーリエという少女の顔を。


 リーリエは席を立った。


「……少し、外の空気を吸ってきます」


 広間を出た。中庭に向かった。冬の冷たい空気が頬に当たる。白い息が漂う。


 中庭のベンチに座った。膝の上で手を組んだ。指が冷たい。白い息が口元から立ち上り、冬の空に消えていく。石のベンチの冷たさが、薄い衣の上からでも骨に沁みた。


「私が炉に戻れば——」


 また、その思考が浮かんだ。


 けれど——すぐに否定した。


「違う。私が戻っても、それは解決にならない。一時しのぎにしかならない」


 声に出して言った。自分自身に言い聞かせるために。


 聖女制度は——壊れた仕組みだ。一人の命を燃料にして結界を維持する。その燃料が尽きれば、次の聖女を探す。次の聖女がいなければ——終わり。


 リーリエは「最後の聖女」だ。リーリエの後に聖女は生まれない。リーリエが炉に戻って命を燃やしても、それは数十年の延命にしかならない。リーリエの命が尽きたら——やはり、結界は崩壊する。


 自己犠牲は——解決策ではない。先延ばしに過ぎない。


「……でも、何もしなければ世界が壊れる」


 リーリエは空を見上げた。冬の空。高く、青い。雲はない。


「戻っても解決にならない。何もしなくても壊れる。ならば——」


 別の方法はないのか。


 犠牲でも放置でもない、第三の選択肢。


 歴代聖女の声が蘇った。あの「あきらめないで」という声。「方法がある」という声。


 方法がある。


 誰かがそう言っていた。炉の中で何百年も漂いながら、希望を手放さなかった声が。


 方法が——あるのなら。


 足音が聞こえた。


 カインだった。


 黒い外套。中庭に出てきたカインが、リーリエの隣に立った。


「一人で考えるな」


 カインの声だった。低くて、ぶっきらぼうで、けれど温かい声。外套の裾が冬の風に翻っている。いつの間にか——すぐ隣に立っていた。


 リーリエは顔を上げた。


「……聞いていたんですか」


「壁が薄い」


 嘘だった。壁は厚い。カインが追いかけてきたのだ。リーリエが広間を出てから、おそらく三十秒も経っていない。それだけの間に——カインはリーリエを追ってきた。心配していないふりをして。いつも、そうだ。


「カインさん。私——」


「わかっている。結界のことだろう」


 カインがベンチに座った。リーリエの隣に。肩が触れるか触れないかの距離。


「お前が悩む必要はない。俺が——」


「一緒に考えてください」


 リーリエが遮った。


 カインが——目を瞬かせた。


「一人で抱え込まないでください。私も——一人で考え込みません。だから——一緒に」


 カインは——しばらく、何も言わなかった。


 そして——小さく頷いた。


「……ああ」


 二人で空を見上げた。


 冬の空は高く、澄んでいた。遠くで鴉が鳴いている。風が枯れ枝を揺らし、細い影が地面で踊っていた。


 答えはまだ見えない。けれど——一人ではない。


 それだけで——考える力が、湧いてくる。


 カインが窓の外を見つめていた。深紅の目に——決意が宿っている。五百年間探し続けた答えが、今——手の届く距離にある。リーリエの聖女の力。レオンハルトの教会の知識。そしてカイン自身の五百年の蓄積。


 三つのピースが揃いつつある。


 リーリエは報告書の束を見つめた。結界の弱体化。各地の災厄。教会の再編。数字は厳しい。時間は限られている。けれど——暗い数字の中にも、光はある。辺境領主からの密書。教会に疑問を持つ聖職者たちの動き。世界は一枚岩ではない。


 レオンハルトが立ち上がった。


「俺に教会の内部構造を詳しく教えさせてくれ。兵站、聖術の配置、大司教の行動パターン——全て話す」


 カインが頷いた。


「頼む」


 低い声だった。短い言葉。けれどその一言に——五百年間たった一人で戦ってきた男の変化が凝縮されていた。他者に頼ること。他者を信じること。カインにとって、それがどれほど大きな一歩か——リーリエには想像がつく。


 その二文字を、カインが他人に向けて言うのを——リーリエは初めて聞いた。


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