団長の十字架
夜だった。
魔王城の一室。レオンハルトに割り当てられた客室。質素な部屋だが、ベッドは柔らかく、暖炉に火が入っている。マリカが用意してくれた毛布は厚く、枕元にはフィルが「お客さん用です」と持ってきた花が一輪、コップに挿してあった。
レオンハルトは——眠れなかった。
毛布が温かい。ベッドが柔らかい。暖炉の火が部屋を温めている。教会の兵舎よりもずっと快適な環境だ。それなのに——ベッドに横になっているが、目が冴えている。天井の木目を見つめている。暖炉の火がちりちりと音を立てている。
手が——震えていた。
右手を顔の前に持ち上げた。指が微かに震えている。騎士の証を外した手。聖騎士の徽章を置いた手。あの徽章は——もう手元にない。
教会を裏切った。
その事実が——夜の静けさの中で、重くのしかかってくる。
レオンハルトは目を閉じた。
浮かぶのは——教会の景色だった。
訓練場。朝日の中で剣を振る同僚たち。師匠の厳しい声。部下の敬礼。「団長殿」と呼ばれる度に、背筋が伸びた。自分の居場所だった。誇りだった。
教会の礼拝堂。聖典を朗読する声。ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光。膝をつき、聖女を守ると誓った日。あの日の清冽な気持ちは——今でも覚えている。
部下たちの顔。一緒に戦った騎士たち。飯を食い、酒を飲み、背中を預け合った仲間たち。彼らは今——レオンハルトを裏切り者と呼んでいるだろう。
「……っ」
レオンハルトは枕を殴った。
正しいことをした。頭ではわかっている。暖炉の火が揺れるたびに、天井の木目が影を変える。その影が——教会の礼拝堂の天井を思い出させた。聖女制度は間違っている。教会は嘘をついている。リーリエを炉に送り返すことは——正義ではない。
わかっている。
わかっていても——苦しい。
半生を捧げた組織を否定した。仲間を裏切った。「聖騎士」という自分のアイデンティティを、自分の手で壊した。
扉が——軽く叩かれた。
レオンハルトは身体を起こした。
「……誰だ」
「リーリエです。起きていらっしゃいますか」
リーリエの声だった。小さな、穏やかな声。
レオンハルトは扉を開けた。リーリエが廊下に立っていた。寝間着の上に薄い上着を羽織っている。手に——カップを持っていた。
「眠れませんか」
「……少し」
正直に答えた。嘘をつけない性格だった。
リーリエが微笑んだ。
「お茶をお持ちしました。マリカさんに教えてもらった、眠れるときのお茶です。——カインさんが淹れたものではないので、味は保証できます」
その言い方に——レオンハルトは思わず噴き出した。
「……魔王殿のお茶は、そんなにまずいのか」
「不器用なだけです。でも——あの味が、私は好きです」
リーリエがカップを差し出した。レオンハルトが受け取った。温かい。ハーブの香りがする。
一口飲んだ。美味い。普通に美味い。温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく。身体の芯が、少しだけ解れた。
「……あなたは、なぜここに」
「眠れない夜は——一人でいると、つらくなりますから」
リーリエの声が、静かだった。
この少女は——知っているのだ。一人で苦しむ夜の重さを。教会の祭壇で、炉に命を吸われながら、暗い部屋で一人で過ごした夜を。
ハーブティーの匂いが、廊下の冷たい空気に混じって漂ってきた。甘くて、温かい匂い。
「レオンハルトさん」
「……何だ」
「あなたが来てくれなかったら、私は帰れなかった」
リーリエが言った。改めて。昼間も言った言葉。けれど夜に、一対一で言う「ありがとう」は——昼間とは、違う重さがあった。
「あなたが扉の前に立ってくれた。鍵を持って。教会に背を向けて。——その勇気が、私を救ったんです」
レオンハルトの目が——熱くなった。
泣くまいと思った。騎士は泣かない。まして聖女の前では。
けれどリーリエの目が——あまりにも、まっすぐだった。
リーリエの目を見た。薄い青紫の瞳が、月明かりに照らされている。その瞳の奥に——教会にいた頃にはなかった光があった。生きている光。
「……教会を裏切ったんじゃない」
レオンハルトが言った。声が震えていた。
「正義を——取り戻したんだ」
自分自身に言い聞かせているのかもしれない。けれどリーリエが頷いた。小さく、けれど確かに。
「はい。あなたは正しかった」
その一言が——レオンハルトの胸を、静かに満たした。
許された——のではない。最初から罪ではなかったのだ。
リーリエは「おやすみなさい」と言って去っていった。足音が遠ざかる。軽い足音。
レオンハルトはカップのお茶を飲み干した。温かい。身体の芯に染みる。ハーブの甘い余韻が口の中に残った。リーリエが持ってきてくれたお茶。聖女が——教会を裏切った騎士のために、わざわざお茶を淹れてくれた。
窓に歩み寄った。カーテンを少し開ける。月が出ていた。冬の月。冷たく、けれど明るい。月光が部屋に差し込み、床に白い四角形を描いた。教会の礼拝堂でも、こんな風に月が差すことがあった。あの頃の月と、今の月は——同じ月だ。変わったのは、月ではなく自分の方だ。
「教会を裏切ったんじゃない」
もう一度、声に出した。
「正義を——取り戻したんだ」
二度目は——声が震えていなかった。
確信が——宿り始めていた。
まだ完全ではない。まだ揺れる夜はあるだろう。けれど——前を向ける。
月明かりの中で、レオンハルトは目を閉じた。
教会の紋章を外した胸に——新しい誓いが、静かに灯っていた。
朝になったら、カインに話がある。聖騎士団の内部情報。大司教の行動パターン。教会軍の弱点。教会を離反した者だけが持つ知識が、レオンハルトにはある。それを——カインとリーリエのために使う。
聖女を守ること。聖女制度を終わらせること。そのためなら——騎士の名誉を捨てても構わない。
いや——名誉を捨てるのではない。新しい名誉を手に入れるのだ。教会に忠誠を誓う名誉ではなく——自分の信念に忠実であるという名誉を。
フィルが枕元に置いてくれた花が、月明かりに照らされて白く光っていた。小さな花。冬に咲く奇跡。この城は——小さな奇跡で溢れていた。温かいスープ。マリカの笑顔。リュカの軽口。カインの不器用な優しさ。
聖女が「ここにいたい」と言った理由が——たった一夜で、わかった気がした。
レオンハルトは目を閉じた。枕元のフィルの花の匂いが、微かに鼻に届いた。小さな花。冬に咲く奇跡。この城には——戦場にはない温もりがあった。




