傷と茶
帰還から一日が経った。
リーリエは自室のベッドで休んでいた。マリカが何度も様子を見に来て、スープを運び、毛布を追加し、「もっと寝ていてください」と言った。フィルが花を摘んできて枕元に飾り、リュカが「旦那様が落ち着かなくて大変です」とこっそり教えてくれた。
落ち着かない——というのは控えめな表現だった。リュカによれば、カインは朝から廊下を行ったり来たりし、三度リーリエの部屋の前で立ち止まり、三度踵を返し、四度目にようやく扉を叩いたらしい。
カインは、朝から三回——いや四回、リーリエの部屋を訪れていた。
一回目。「水を持ってきた」。テーブルに水差しを置いて出ていった。
二回目。「窓を開けた方がいいか」。リーリエが「そのままで大丈夫です」と答えると、頷いて出ていった。
三回目。「昼食はどうする」。マリカがすでに持ってきた後だった。テーブルの上のスープを見て、「……そうか」と言って出ていった。
四回目が来たのは、午後の早い時間だった。
「熱はないか」
扉を開けたカインの外套から、廊下の冷たい空気が流れ込んだ。鉄と冬の匂い。カインが椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。リーリエの額に手を当てる。大きな手。冷たい。けれど額に触れると——安心する。
「熱はありません。だいぶ楽になりました」
「……そうか」
カインは手を引いた。けれど椅子から立ち上がらなかった。
リーリエはカインの腕を見た。
右腕。黒い外套の袖の下に、白い包帯が見える。手首のあたりから肘にかけて。包帯の巻き方が——不器用だった。自分で巻いたのだろう。
「カインさん」
「何だ」
「腕の包帯——見せてください」
カインの目が泳いだ。
「これは大したことは——」
「見せてください」
リーリエの声が、穏やかだけれど——引かない声だった。
カインはしばらく黙っていた。そして——渋々、袖をまくった。
包帯の下。右腕に——深い切り傷が走っていた。聖騎士の剣の一撃を受けた痕だ。城塞での戦闘で負った傷。峰打ちで相手を倒している間に、一人の騎士の刃を腕で受けたのだろう。
「大した——」
「血が滲んでいます」
包帯が赤く染まっていた。傷がまだ塞がりきっていない。カインの超常的な回復力でも、数日はかかる深さだった。
リーリエはベッドから身体を起こした。
「リーリエ、お前は寝ていろ——」
「救急箱を取ってください」
「だから——」
「カインさん」
リーリエがカインの目を見た。薄い青紫の瞳が、深紅の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「自分のことも大事にしてください」
カインが——口を閉じた。
リーリエの言葉に反論できなかった。「お前が心配だ」と言いたい。「俺の傷などどうでもいい」と言いたい。けれどリーリエの目が——許さなかった。
カインは渋々と部屋の棚から救急箱を取り出し、リーリエに渡した。箱を開けると、消毒液の刺すような匂いが鼻を突いた。
リーリエは包帯を丁寧にほどいた。傷を見る。深い。けれど致命的ではない。清潔な布で傷口を拭き、薬を塗り、新しい包帯を巻いた。
手つきは——慣れていた。教会で医療の基礎を学んでいたのだ。聖女には癒しの力があると信じられていたが、実際には聖術の治癒よりも、地道な手当ての方が効果的なことが多かった。
「……痛くないですか」
「痛くない」
嘘だった。包帯を巻くリーリエの指が傷口に触れるたびに、カインの指が微かに跳ねていた。
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「指が動いていました」
カインが——黙った。
リーリエは包帯を巻き終えた。今度は丁寧に、均等な力で。カインが自分で巻いたものよりもずっと綺麗に。
「はい。終わりました」
「……ありがとう」
小さな声だった。ぶっきらぼうな「ありがとう」。けれどカインの口から「ありがとう」が出ること自体が、珍しかった。
リーリエが微笑んだ。
「お茶を淹れましょうか」
「いや——俺が淹れる」
「カインさん、腕に傷があるでしょう」
「利き腕じゃない。淹れられる」
リーリエは包帯の端を指で押さえ、丁寧に結んだ。カインの腕に触れるたびに——筋肉が固い。剣を振るう腕。五百年間戦い続けてきた腕。その腕に、自分が包帯を巻いている。不思議な感覚だった。
カインは立ち上がり、部屋の棚から茶器を取り出した。湯を沸かし、茶葉を入れる。手つきが——不器用だった。いつも通りの、安定の不器用さ。
カップに注がれたお茶の色は——いつもより少し薄かった。茶葉の量を間違えたのだろう。
カインがカップを差し出した。
リーリエが受け取って、一口飲んだ。
薄い。ぬるい。いつもの苦みがない。
「……美味しいです」
「嘘つけ」
「本当です。——いつもより、優しい味です」
カインが横を向いた。耳が赤い。
リーリエは二口目を飲んだ。
薄くて、ぬるい。お茶としては失敗作だろう。けれど——これでいい。
カインが淹れてくれたお茶を、カインの城で、カインの隣で飲んでいる。
それだけで——今は、十分だった。
危機の後の日常は——いつもより、少しだけ甘い。
カインが席を立った。「少し休め」と言い残して、扉に向かう。その背中を見送りながら、リーリエはカップを両手で包んだ。温もりが掌に沁みる。薄くて、ぬるいお茶。世界一不器用な男が淹れた、世界一下手な一杯。けれどリーリエにとって——これ以上のお茶はない。
窓の外で、冬の最後の風が木の枝を揺らしていた。枝が窓ガラスを叩く音が、規則的に聞こえる。遠くで鳥が鳴いた。春は——まだ遠い。けれど空気の中に、微かに変化の兆しがある。
リーリエはカップを置き、窓の外を見つめた。教会の城塞での日々が、夢のように感じられる。あの暗い地下室。炉の脈動。歴代聖女たちの声。大司教の穏やかな笑み。
けれどあれは夢ではなかった。現実だった。そしてあの現実の中で——リーリエは折れなかった。泣いた。怖かった。けれど——折れなかった。
カインが来てくれたこと。レオンハルトが鍵を持ってきてくれたこと。それは奇跡ではなく——繋がりの力だった。一人ではない。もう、一人ではない。
リーリエは花茶の残りを飲み干した。温かい液体が喉を通り、胸に落ちていく。カップの底に茶葉の欠片が残っている。カインが雑に入れた証拠だ。その雑さが——愛おしかった。
明日から——動き始めなければならない。世界は待ってくれない。結界は弱まり続けている。教会は諦めない。
けれど——一歩ずつ。今日は休む。明日から、歩き出す。




