帰還
城門が見えたとき、リーリエの足が止まった。
魔王城。黒い石壁。尖塔。旗。もう何度も見た景色。けれど今日は——違って見えた。
帰ってきた。
教会の城塞の地下。暗い部屋。炉の気配。聖女たちの声。身体の消耗。大司教の「安らぎ」。全てが——遠い。目の前にあるのは、黒い城壁と、門番の旗と、そして——。
城門が開いた。
中から——人が飛び出してきた。
「リーリエ様!」
最初に走ってきたのはフィルだった。小さな身体で全力疾走し、リーリエの腰に抱きついた。金色の髪がリーリエの服に押しつけられる。
「リーリエ様、リーリエ様、リーリエ様——!」
泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして、鼻水を垂らして、全身で泣いていた。
「お嬢——!」
リュカが走ってきた。いつもの軽口はない。琥珀色の瞳が潤んでいる。泣くまいと堪えているのが丸わかりだった。
「ったく——心配させやがって——って、俺は別に心配なんかしてませんけど——」
鼻声だった。嘘が下手な男だ。
ヴェルナーが歩いてきた。足取りは落ち着いている。けれど銀縁の眼鏡を外して拭いている。レンズが曇っている——涙で。
「おかえりなさいませ、リーリエ様」
声が震えていた。いつもの冷静な声が——初めて、震えていた。
マリカが最後に来た。厨房のエプロンをつけたまま。手に鍋つかみを持ったまま。駆け寄ってきて、リーリエの手を取った。温かい手。スープの匂いがする。
「あったかいもの作ってありますからね。すぐに食べさせますからね——」
マリカの声も震えていた。
四人に囲まれて——リーリエは立っていた。
フィルがしがみつき、リュカが鼻をすすり、ヴェルナーが眼鏡を拭き、マリカが手を握っている。
リーリエの胸に——何かが込み上げてきた。
温かいもの。苦しいくらいに温かいもの。
この人たちが——待っていてくれた。
リーリエがいない間、心配して、泣いて、待っていてくれた。リーリエのために。「聖女」ではなく——リーリエのために。
「ただいま」
リーリエが言った。
声は小さかった。掠れていた。けれど——一語一語が、明瞭だった。
ただいま。
かつてのリーリエは、この言葉を知らなかった。「ただいま」を言う場所がなかった。帰る場所がなかった。教会の聖堂は「帰る場所」ではなく「繋がれる場所」だった。
今は——違う。
「おかえりなさい!」
四人の声が重なった。泣きながら。笑いながら。
フィルが顔を上げた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。
「リーリエ様、もう、どこにも行っちゃダメですからね!」
「……はい」
「約束ですよ!」
「約束します」
フィルがまた泣いた。リーリエの腰にしがみついて、大声で泣いた。
リュカが「ほら、泣くな泣くな」と言いながら自分も目を拭いていた。ヴェルナーが「中へどうぞ。お身体を休めなければ」と促し、マリカが「スープが冷めますから」と厨房に向かった。
リーリエは四人に囲まれて、城の中に入った。
広間。いつもの広間。大きなテーブル。椅子。暖炉に火が入っている。暖かい。
暖炉の炎が橙色の光を広間に落としている。薪の爆ぜる音が心地よい。石の壁が暖炉の熱で温まり、冬の冷気を遠ざけていた。
テーブルの上座に——カインが座っていた。
いつ先に入ったのか。リーリエが従者たちに囲まれている間に、さっさと中に入っていたらしい。何事もなかったかのように椅子に座り、腕を組んでいる。
「遅かったな」
カインが言った。
リーリエは一瞬、目を瞬かせた。
「……あなたが先に帰ったんでしょう」
従者たちが——笑った。リュカが噴き出し、ヴェルナーが口元を押さえ、フィルがきょとんとし、マリカが肩を揺らした。
カインが不機嫌そうに腕を組み直した。耳の先が微かに赤い。けれど唇の端が——微かに上がっていた。
日常が——戻ってきた。暖炉の火の温もり。食器が鳴る音。誰かの笑い声。これが日常だ。
リーリエはテーブルにつき、マリカが運んできたスープを飲んだ。スプーンを口に運んだ瞬間——目が熱くなった。この味。マリカのスープの味。地下室で何度も思い出した味が、今、舌の上にある。温かい。身体の芯から温まる。何日ぶりかのまともな食事だ。
フィルが隣に座って、リーリエの袖を掴んでいた。離さない。
リュカが向かいの席で「しかしお嬢、痩せましたね。マリカさん、追加のスープを」と言い、マリカが「もう作ってあります」と答えた。
ヴェルナーが窓際に立ち、外を確認しながらも——時折、安堵の表情を見せていた。
カインは何も言わず、スープを飲んでいた。
隣に——レオンハルトが、居心地悪そうに座っていた。魔王城に入ったのは初めてだ。周囲は「魔王」の従者たち。聖騎士の鎧を着た男が、この場にいる違和感。
フィルがレオンハルトを見上げた。
「あなたは、だあれ?」
「……俺は——えっと——」
レオンハルトが困っている。
リーリエが答えた。
「この方は、助けてくれた人です」
フィルの目が輝いた。
「じゃあ、いい人だ!」
リュカが「単純だなあ」と笑い、レオンハルトの肩を叩いた。「ま、ゆっくりしていってくださいよ。うちのスープは美味いですから」
レオンハルトの肩から——力が抜けた。
暖炉の火が、広間を温かく照らしていた。
リーリエはスープを飲みながら——思った。スープの湯気が顔を温める。野菜の甘い匂い。マリカの手料理の匂い。この匂いを、地下室でずっと思い出していた。
ここが、私の居場所だ。
「ここにいたい」ではない。「ここが、私の居場所だ」。
そう思えることが——どれだけ幸せなことか。
城門でフィルが泣いていた。「リーリエ様ぁ」と泣きながら駆け寄ってきて、リーリエの腰にしがみついた。マリカが涙を堪えながら「お帰りなさいませ」と言った。リュカが「お嬢! 無事っすか!」と叫んで走ってきた。ヴェルナーが眼鏡を外し、目頭を押さえていた。
みんなが——待っていてくれた。
リーリエの目から、涙が溢れた。止められなかった。止める必要もなかった。
泣いた。声を上げて泣いた。フィルを抱きしめて、マリカの手を握って、リュカに「ただいま」と言って。
この場所が、居場所だ。この人たちが、家族だ。
教会にいた頃は——「居場所」という言葉の意味すら知らなかった。けれど今は知っている。居場所とは——帰りたいと思える場所。自分の名前を呼んでくれる人がいる場所。「おかえり」と言ってもらえる場所。




