あなたこそ
リーリエが目を覚ましたのは、明け方だった。
最初に感じたのは——温かさだった。身体が温かい。背中に固いものが当たっている。岩。地面。けれど身体を覆っているのは——カインの外套だった。黒い外套が毛布のようにリーリエの全身を包んでいた。
次に感じたのは——カインの気配だった。すぐ隣にいる。近い。右手を伸ばせば届く距離に。
リーリエは身体を起こした。節々が痛い。地面で眠ったせいだ。けれど炉の気配は——遠い。教会の城塞から離れたことで、紋章の脈動が穏やかになっている。命の消耗が——止まったわけではないが、緩やかになっていた。
カインが岩に背を預けて座っていた。目は開いている。一晩中——起きていたのだろう。
「目が覚めたか」
「……はい」
リーリエの声が掠れていた。喉が乾いている。カインが水袋を差し出した。リーリエが受け取って飲む。冷たい水が喉を潤した。
「……何時間、眠っていましたか」
「六時間くらいだ。泣き疲れて倒れた。びっくりするほどあっさり」
リーリエの頬が赤くなった。
頬が熱い。泣き腫らした目が腫れぼったい。カインの外套に染みた涙の跡が、朝日に照らされて光っている。
「……す、すみません。泣いて——その、お話の途中で——」
「別にいい」
カインは前を向いたまま言った。表情が読めない。いつもの無愛想な顔。
「身体はどうだ。炉の影響は」
「だいぶ楽です。城塞にいたときに比べれば」
「食料はレオンハルトが確保した。食え」
干し肉と硬いパンが差し出された。レオンハルトが城塞から持ち出したものだろう。リーリエはゆっくりと食べ始めた。胃が縮んでいて、少量しか入らなかった。
少し離れた場所で、レオンハルトが木の幹にもたれて仮眠を取っていた。鎧を着たまま。剣を抱えたまま。戦士の眠り方だった。
しばらく無言で食事をした後——カインが口を開いた。
「リーリエ」
「はい」
「二度と一人で行くな」
声が——硬かった。
「交渉も、何もかも。俺のそばを離れるな」
命令。一方的な命令。以前のカインなら、これで会話が終わっていただろう。リーリエが「はい」と答え、カインが頷き、それで終わり。
リーリエは——少し間を置いた。
パンを噛み、水を飲み、口の中のものを飲み込んだ。
「……カインさん」
「何だ」
「あなたこそ、一人で来たでしょう」
カインの口が——閉じた。
「……それは」
「一人で城塞に乗り込んで。門を壊して。何十人も倒して。——一人で」
「状況が——」
「一人で危険な場所に行くなと、私にだけ言うのはずるいです」
リーリエの声は穏やかだった。怒っているのではない。責めているのでもない。ただ——事実を述べている。カインがいつも言う「一人で行くな」を、そのままカインに返している。
カインが——言葉に詰まった。
口を開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。反論しようとしている。けれど反論の材料がない。リーリエの言う通りだから。
リーリエが——微かに笑った。
ふっと力が抜けたような笑み。目尻が少し下がって、唇の端が上がる。凍結した笑みではない。穏やかな、けれど確かな感情が宿った笑み。
「……今度は、一緒に行きましょう」
カインが目を逸らした。明後日の方向を見た。耳が——微かに赤い。
「……勝手にしろ」
その声が——柔らかかった。ぶっきらぼうなのに、柔らかかった。リーリエの胸に温かいものが広がった。涙の後の、不思議な軽さ。泣いたことで——何かが洗い流されたような。
少し離れた場所で——レオンハルトが目を覚ましていた。二人の会話が聞こえていたらしい。口元を手で覆い、笑いを堪えている。肩が震えている。
琥珀色の瞳が——温かかった。
この二人を見ていると——自分の選択は間違っていなかったと、思える。
教会を裏切った。組織に背を向けた。けれど——この二人の間にある空気を壊す気は、レオンハルトにはない。
朝日が谷間に差し込んだ。木々の隙間から光が降り注ぎ、三人の顔を照らした。
朝の光が木々の間から差し込み、三人の顔を照らした。冷たい空気が肺に沁みるが、清々しい。山の匂い。土と枯れ葉と、微かに春の気配を含んだ風。
カインが立ち上がった。
「行くぞ。城まで半日かかる」
リーリエに手を差し伸べた。
リーリエはその手を——取った。
大きな手。温かい手。この手に何度も助けられた。何度も守られた。
けれど今日は——ただ「手を取った」だけだ。守られるためではなく。立ち上がるために。
二人の手が繋がって——離れた。
リーリエは立ち上がり、服の砂を払った。カインの手が離れた後も、掌に温もりが残っていた。大きくて、硬くて、温かい手。その感触を、リーリエは心の中に刻んだ。身体はまだ本調子ではない。紋章が微かに脈動している。炉の消耗の名残がある。けれど足は——しっかりと地面を踏んでいた。
レオンハルトが立ち上がり、鎧を整えた。腰の剣を確認し、周囲を見渡す。追手の気配はない。
「帰り道は俺が知っている。山道を迂回すれば、教会の哨戒線を避けられる」
レオンハルトが先導した。カインが隣を歩き、リーリエが少し後ろに続いた。
山道を歩きながら、朝の冷たい空気を吸い込んだ。鳥が鳴いている。木の枝で、冬を越えた小鳥が朝の歌を歌っている。肺が——清々しかった。教会の城塞の地下に篭もっていた空気とは、全く違う。生きている空気だった。
三人で——魔王城に向かって歩き出した。
山道は険しかった。朝露に濡れた岩が滑り、木の根が足元に絡みつく。道とは呼べないような獣道を辿っていく。冬の山の匂いが濃い。杉の樹脂と、凍った土と、遠くの雪解け水の匂い。リーリエの足元がおぼつかない。身体の消耗が戻りきっていない。
カインが手を差し出した。何も言わず。リーリエはその手を取った。大きくて、温かくて、剣だこのある手。この手に何度助けられただろう。
レオンハルトが前を歩きながら、枝を払ってくれた。聖騎士の剣で低木の枝を切り、道を作る。かつて教会のために使っていた剣が、今は——聖女のために道を開いている。
冬の山の空気は冷たい。吐く息が白く、指先が凍える。けれど三人の間に流れる空気だけは——温かかった。
レオンハルトが立ち止まって振り返った。カインとリーリエが並んで歩いている。カインの歩幅がリーリエに合わせて小さくなっていることに、本人は気づいていないのだろう。レオンハルトは小さく息を吐き、前を向いて歩き出した。




