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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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腕の中

 教会の追撃が途切れたのは、山道を半刻ほど走った頃だった。


 カインが時折放つ威圧の波動が、追手の足を鈍らせた。レオンハルトの殿も効いていた。教会の兵士たちは、団長に剣を向けることに躊躇していた。裏切り者だと理解していても——長年従ってきた上官を斬ることには、心理的な壁がある。


 その壁が、二人に時間を稼いだ。


 山道を外れ、小さな谷間に降りた。岩壁に囲まれた窪地で、木々が覆い被さるように茂っている。上空からは見えにくい。身を隠すには十分だった。


 カインがリーリエを降ろそうとした。


 リーリエの手が——カインの外套を掴んでいた。


 指に力はない。身体から力が抜けている。爪の色が白く、指先が痺れている。けれど外套の布を握る指だけが——離れなかった。黒い布地の感触が、掌に染みついている。この布地を手放したら——また一人になってしまう。そんな恐怖が、無意識に指を動かしていた。


「……リーリエ」


 カインの声が柔らかくなった。戦場での冷徹さが消え、日常のぶっきらぼうな優しさに戻っている。


「降ろすから。ここは安全だ」


 リーリエは外套を掴んだまま、首を横に振った。


「……まだ」


「身体を休ませないと——」


「もう少しだけ」


 声が震えていた。身体の震えではない。感情の震え。堰を切ったように溢れてくる何かを、必死に押さえ込んでいる震え。


 カインは——降ろさなかった。


 リーリエを抱えたまま、岩壁に背を預けて座った。リーリエを膝の上に抱えるような形になった。


 レオンハルトが少し離れた場所に腰を下ろし、周囲を警戒しながら目を逸らした。


 リーリエが——口を開いた。


「怖かった」


 その一言が出た瞬間、涙が溢れた。


 声が震えた。唇が震えた。身体全体が震えた。今まで堪えていたものが——一気に決壊した。


「怖かったです。炉の声が聞こえて——身体が燃えるみたいに熱くて——戻れって言われて——」


 言葉が途切れ途切れになる。息が詰まる。涙で前が見えない。


「楽になれるって——炉に戻れば楽になれるって——」


 カインの身体が強張った。炉に戻れば楽になる——聖女をそう誘惑するのが炉の本質だ。リーリエがその誘惑と戦っていたことを、カインは今知った。


「でも——戻りたくなかった。あの場所に帰りたかった。カインさんの——不器用なお茶を、もう一度飲みたかった」


 カインの表情が——崩れかけた。一瞬だけ。唇が微かに歪み、眉間に皺が寄った。けれどすぐに戻した。


「——あれは不器用じゃない。味はともかく、温まるだろう」


「……味も、です。あの味が、好きなんです」


 リーリエの声が——泣きながら、笑った。


 カインの手が——リーリエの頭に置かれた。大きな手。ごつごつした、剣だこがある手。五百年の戦場を生き延びた手が——今は、泣いている少女の頭を、不器用に撫でていた。


 何も言わなかった。


 気の利いた言葉など、この男は持ち合わせていない。五百年生きても、感情を言葉にする技術は上達しなかった。


 代わりに——ただ撫でた。


 リーリエの銀灰色の髪を。毛先が少し乱れた、手入れに無頓着な髪を。


「もう大丈夫だ」


 低い声が、リーリエの頭の上から降りてきた。振動が頭蓋に伝わる。カインの声帯が震えるのを、骨伝導で感じた。温かかった。地下室で聞いた炉の声とは、全く違う温かさ。


 それだけ言った。


 リーリエは泣き続けた。声を殺して。カインの胸に顔を埋めて。外套がぐしゃぐしゃに濡れていく。カインはそれを気にしなかった。


 泣けるようになった。


 かつてのリーリエは泣かなかった。泣く力すら残っていなかった。「疲れた」「もういい」と呟くだけで、涙は出なかった。


 今は——泣ける。


 怖かったと言える。帰りたかったと言える。お茶の味が好きだと言える。


 その全てが——感情が戻った証。凍結が、溶けた証。


 カインの外套が涙で濡れている。黒い布地に染みが広がり、冬の風で冷えていく。けれどカインは気にしなかった。リーリエの髪を撫でる手だけが、ゆっくりと動き続けていた。


 リーリエの泣き声が——少しずつ、小さくなっていった。


 泣き疲れたのだ。身体の消耗が激しい。炉に命を吸われ続けた数日間の疲労が、感情の解放とともに押し寄せてきた。


 リーリエの手が——外套から離れた。指の力が抜けて、するりと。


 眠っていた。


 泣きながら、カインの腕の中で、眠りに落ちていた。涙の跡が頬に残ったまま。まつ毛が微かに震えている。夢を見ているのだろうか。


 カインはリーリエの寝顔を見下ろした。


 頬が涙に濡れている。目の下の隈が濃い。唇の色が薄い。痩せた。


 けれど——呼吸は安定していた。穏やかな寝息。カインの腕の中で、安心して眠っている。


 カインの表情が——変わった。


 誰にも見せない顔。戦場では見せない。従者の前でも見せない。リーリエの前でも——起きている時には見せない。


 柔らかい顔だった。


 五百年の孤独が、一瞬だけ消えた顔。


「……馬鹿が。不味いお茶が好きとか——」


 独白は、途中で止まった。


 カインはリーリエの頭をそっと支え直し、外套の端をリーリエの肩にかけた。山の夜は冷える。風が谷間を吹き抜け、木々の葉を揺らしている。虫の声はない。冬の夜は、静かだ。


 レオンハルトが離れた場所から、ちらりとこちらを見た。すぐに目を逸らした。見てはいけないものを見たような——しかしどこか安堵した表情で。


 岩壁に囲まれた谷間に、静寂が満ちていた。木々の葉が風に揺れる音と、遠くで鳥が鳴く声だけが聞こえる。


 谷間に、夕暮れの光が差し込んでいた。


 空が——静かだった。冬の空が、紫と橙のグラデーションに染まっている。星がまだ見えない。けれどあと少しで——夜が来る。


 リーリエはカインの外套に包まれたまま、谷間の岩に腰掛けていた。身体はまだ重い。炉に命を削られた消耗が残っている。けれど——生きている。呼吸ができる。風を感じる。


 カインがすぐ隣にいた。半歩前。風を遮る位置。いつもの位置だ。


 レオンハルトが少し離れた場所で、崖を背に座っている。甲冑から教会の紋章を外し、手の中で転がしていた。銀色の紋章が夕暮れの光を受けて鈍く光っている。


 三人は——黙っていた。言葉は必要なかった。風が谷間を抜け、木の枝を揺らした。枯れ葉が一枚、リーリエの膝に落ちた。それを指で摘んで、空に放した。風が葉を攫い、空に舞い上がっていった。


 逃げ延びた。生きている。それだけで——今は十分だった。


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