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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王の書庫

 その部屋を見つけたのは、偶然だった。


 午後、リーリエは城の東棟を歩いていた。散歩というほど大層なものではない。ただ、部屋にいても庭にいても同じなら、歩いていても同じだと思っただけだ。


 城は広い。初めて来た日から何度か歩き回ったが、まだ知らない部屋がいくつもある。カインは「好きに歩け」と言っていた。一つだけ例外があるが、それはまた別の話だ。


 東棟の奥まった廊下を曲がると、大きな両開きの扉があった。


 開けた。重い扉が軋みながら開き、中の空気がふわりと廊下に流れ出した。古い紙の匂い。インクの匂い。そして革の匂い。長い時間をかけて熟成された、知識そのものの匂いだった。廊下の冷たい空気とは明らかに違う、乾いた温もりが頬に触れた。


 息が止まった。


 天井まで届く本棚が、四方の壁を埋め尽くしていた。


 二階建ての吹き抜け構造で、上階にも棚が並んでいる。螺旋階段が壁際に設えられ、高窓からの光が棚に差し込んでいた。革の背表紙、布の背表紙、羊皮紙の巻物。色も大きさもばらばらの蔵書が、整然と並べられている。


 埃は少ない。誰かが手入れしているのだろう。空気は乾いているが、紙とインクの匂いが微かに漂っている。


 リーリエの目が——わずかに見開かれた。


 呼吸を忘れていた。胸の奥の灼熱すら、一瞬だけ遠のいた。これだけの本が。これだけの知識が。一つの部屋に。


 教会にも書庫はあった。しかし聖女が読めるものは限られていた。教義書と祈祷書と聖典の注釈。世界の仕組みについて書かれた本は「不要」とされ、聖女の目に触れないようにされていた。


 ここには、それがある。


 リーリエは無意識に一歩踏み出し、最も近い棚に手を伸ばした。背表紙に記された題名を指でなぞる。『大陸史要覧 第三巻』。隣には『諸民族の風俗と慣習』、『鉱物誌』、『星辰せいしんの運行と暦法』。


 その隣には小さな書架があり、詩集が並んでいた。さらに奥には植物図鑑、薬草学の書、語学の辞書。


 数百年分の知識が、この部屋に詰まっている。


 リーリエは一冊を抜き取り、窓辺の椅子に座った。『星辰の運行と暦法』。頁を開く。紙は古いが保存状態がいい。挿絵入りで、星の配置図が細密に描かれている。


 読み始めた。椅子の座面は木製で硬かったが、背もたれの角度がちょうどよかった。窓から差す光が頁の上に落ち、古い活字を金色に縁取っている。


 文字が目に入り、意味が頭に流れ込み、世界が広がっていく。星の名前。星と星を結ぶ線。古代の人々がそこに物語を見出した経緯。ページを繰る指先が自然に動き、次の章が始まり、また次の章が始まる。


 気づけば、窓の外の光が傾いていた。


 午後の高い光が夕暮れの金色に変わり、本棚の影が長く伸びている。リーリエは頁を繰る手を止め、窓の外を見た。


 ——何時間、読んでいたのだろう。


 時間の感覚が消えていた。教会では一刻ごとに鐘が鳴り、時間を嫌でも意識させられた。ここには鐘がない。そして本に没頭している間、時間は存在しなかった。


 苦痛も——忘れていた。


 胸の奥でくすぶり続ける鈍い灼熱感。結界が命を吸い上げる代償。リーリエの日常に張りついている痛みが、読書の間だけ、薄れていた。消えたわけではない。意識の外に追いやられていた。


 久しぶりのことだった。


「飯の時間だが」


 声に振り向くと、扉の前にカインが立っていた。腕を組み、扉枠にもたれかかっている。いつからいたのか。


「まだ読むか?」


 リーリエは手の中の本を見た。まだ半分も読んでいない。星の名前と動きの記述が続き、その先には暦の構造が解説されている。


「……もう少し」


 声が、自分の口から出ていた。考えるより先に。頭より先に、身体が答えていた。


 言ってから、気づいた。


 今、自分は——「もう少し読みたい」と言った。


 何かを「したい」と口にしたのは、この城に来てから初めてかもしれない。死にたい、ではなく。疲れた、でもなく。「もう少し読みたい」。


 カインは何も言わず、頷いた。


「わかった。冷めないうちに食堂に来い」


 そう言って去っていった。足音が廊下に消える。


 リーリエは頁に目を戻した。けれどさっきまでのように文字に集中できなかった。「もう少し」という自分の言葉が、頭の中で反響している。


 ——何をしているのだろう、自分は。


 死ぬつもりの人間が、本を読んでどうする。星の運行を知ったところで、その知識を使う日は来ない。時間を忘れるほど没頭したところで、明日はまた同じ痛みが待っている。


 本を閉じて、立ち上がった。表紙に手を置いたまま、一瞬だけ動けなかった。この本の続きが気になる——その感覚が、自分のものだと認めるのに少し時間がかかった。食堂へ向かう。


 夕食の席で、マリカが微笑んだ。


「書庫がお気に入りですか、聖女様?」


「……暇だっただけです」


 カインが椅子に座り、リーリエを見た。


「なら明日も暇だろう。好きなだけ読め」


 リーリエは何も言い返さなかった。


 反論する言葉が見つからなかったのではない。「好きなだけ」という言葉に、反論する気が起きなかったのだ。教会では一度も聞かなかった言葉。食事の量、睡眠の時間、読む本の種類——すべてが「聖女として必要な量」に制限されていた。「好きなだけ」は、リーリエの語彙になかった。


「……好きなだけ」


 呟いた。声に出すつもりはなかった。けれど口から零れた言葉を、カインは聞き逃さなかった。


「ああ。好きなだけだ。お前の本だと思え」


 あの書庫の蔵書は数百年分の知識だ。それを「お前の本だと思え」と言う。この人は、こういう言い方で——


 リーリエは視線を皿に落とした。


 暇だっただけだ。本が読みたかったわけではない。時間を忘れたかったわけでもない。


 そう思うのに、明日もあの書庫に行くだろうという確信が、既にあった。


 指先に、古い紙の感触が残っている。ページを繰るときの微かな音。インクの匂い。高窓から差す光の角度。あの空間の全てが、まだ身体の中に残っている。教会の祈祷書では決して感じなかったもの——没頭という名の忘却が、あの場所にはあった。


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