表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/78

料理の手ほどき

 マリカが厨房に立っていた。


 朝食の片付けが終わった頃、廊下には洗った食器の水の匂いと、パンの焼き残りの香ばしさが漂っていた。リーリエがいつものように庭へ向かおうとすると、マリカが廊下に顔を出した。赤毛の髪を三つ編みにまとめ、エプロンの紐を結び直しながら、控えめに声をかけてくる。頬に小麦粉が少しついていた。


「聖女様、少しお時間いただけますか?」


「何ですか」


「お昼のスープを仕込みたいのですが、人手が足りなくて。お手伝いいただけると助かるのですが」


 リーリエは一瞬だけ黙った。


 断る理由は、いくらでもあった。聖女が料理をする必要はない。マリカ一人で十分できるはずだ。そもそも自分は客——いや、客ですらない。拾われて居候しているだけの存在だ。


 けれど「助かる」と言われると、少し困る。


 教会では何でも「聖女のため」と言われた。水を飲まされるのも、薬を飲まされるのも、すべて「聖女のため」だった。自分のためではなく、結界のため。「助かる」という言葉は聞いたことがなかった。


「……仕方ありませんね」


 リーリエは庭へ向かう足を止め、厨房に向かった。


 厨房はマリカの領域だった。石造りのかまどに火が入り、銅鍋がいくつも棚に並んでいる。壁には乾燥させた薬草や香辛料が吊るされ、窓から入る光に照らされて温かい色をしている。城の中でも特に生活の匂いが濃い場所だった。


「こちらの野菜を切っていただけますか? 大きさはこのくらいで」


 マリカが見本を見せる。リーリエは包丁を受け取り、淡々と野菜を切り始めた。人参、玉葱、芋。手際は悪くない。


「お上手ですね、聖女様」


「教会で習いました」


「教会でも料理をなさったんですか?」


「聖女は万能であれと教えられますから。裁縫、薬草学、礼法、音楽……料理も含まれていました」


 言葉は淡々としていた。けれどその教育の裏にあったものを、リーリエは語らない。聖女が万能であるべき理由は、人柱アンカーとして完全な存在であることを要求されていたからだ。欠けた器では結界ヴェールの燃料として効率が落ちる——そういう理屈だった。


 マリカは何かを察したように、それ以上は聞かなかった。


「ありがたいです。とても助かります」


 その言葉が、また。


 リーリエは野菜を切る手を止めなかった。人参の断面が鮮やかな橙色をしている。切ったそばから甘い香りが立つ。教会の厨房とは違う匂いだった。あちらは薬品と蝋燭の匂いがした。ここは——生き物の匂いがする。


 鍋にバターを溶かし、野菜を炒める。バターが焦げる前の甘い匂いが立ち上り、野菜が熱に触れてじゅうという音を立てた。マリカの指示に従い、水を加え、塩を振る。塩の粒がスープに溶けていく瞬間、水面に小さな波紋が広がった。リーリエの手は正確に動いた。料理に感情はいらない。手順を踏めば、誰でも同じものが出来上がる。


 けれど手順の合間に、マリカが「上手ですね」と微笑むたびに、何かが引っかかった。褒められることに慣れていない。教会では「聖女として当然」としか言われなかった。


「あとは煮込むだけです。聖女様、ありがとうございました」


「いえ」


 スープが煮える音が、厨房に満ちた。ことこと、ことこと。穏やかな音だった。湯気が天井に昇り、窓ガラスを曇らせている。厨房全体が温かい霞に包まれていた。マリカが蓋を少しずらし、匂いを確かめた。「いい香りですね」と微笑んだ。その笑顔が——教会の誰の笑顔とも違っていた。計算のない笑顔。聖女に対してではなく、一緒に料理をした相手に向ける笑顔。


 昼食の時間になった。廊下に出ると、厨房の温もりが嘘のように冷たい空気が肌を刺した。エプロンを外す指先に、まだ野菜を切ったときの感触が残っている。


 食堂にはカインとリュカがいた。リュカが「今日のスープ、なんかいつもと違うっすね」と鼻をひくつかせている。


「お嬢が手伝ったんすか? マリカさんそう言ってたっすよ」


「……頼まれただけです」


 カインが黙ってスプーンを口に運んだ。


 一口。


 咀嚼そしゃく


 沈黙。


「美味い」


 短い言葉だった。カインの表情は変わらない。ただ二口目を口に運び、三口目を口に運び、黙々と食べ続けた。


 リーリエは——微かに、目を逸らした。


 なぜだろう。「美味い」と言われただけだ。マリカの手順通りに作っただけの、何の変哲もないスープだ。リーリエの技量ではなく、マリカの指導と素材の力による味だ。自分が褒められる理由などない。


 なのに。


 カインの「美味い」が、胸のどこかに引っかかった。小さな棘のように。痛みではない。けれど無視できない何かが、ちくりと刺さった。


「カインさま、お代わりは」


 マリカの声にカインが器を差し出す。二杯目。リーリエのスープを、二杯。


「お嬢、俺にもちょうだいっす!」


「自分でよそいなさい」


 リュカがぶうと頬を膨らませ、鍋に向かった。リーリエはスプーンを握ったまま、自分の器を見つめていた。


 死ぬつもりの人間が、料理を覚えてどうするのだろう。


 野菜を切って、鍋を煮て、誰かの前に出す。その誰かが「美味い」と言う。それだけのことだ。何の意味もない。明日死ぬかもしれない身体で、スープの味を整える理由がない。


 けれど——手は止まらなかった。


 切って、煮て、味を見た。マリカの言う通りに。ただの手順。ただの作業。けれど出来上がったものを誰かが食べて、「美味い」と言った。


 リーリエはスープを一口飲んだ。温かかった。教会では感じなかった温度が、舌の上に広がる。


「……不味くはないです」


「だろう」


 カインが短く答えた。二杯目のスープを飲み干しながら。


 食後、リーリエは厨房の前を通りかかった。マリカが夕食の仕込みを始めている。


 足を止めかけて——そのまま通り過ぎた。


 明日も頼まれたら、手伝えばいい。頼まれなければ、それだけのことだ。


 自分から手伝いたいわけではない。


 そう自分に言い聞かせながら、リーリエは庭へ向かった。指先に、人参を切ったときの感触がまだ残っていた。包丁が野菜に入る小気味よい音。鮮やかな断面の色。バターが溶ける甘い匂い。それらが五感の中にまだ居座っている。


 追い出す気はなかった。庭に出ると、午後の光がまだ温かく、風に乗って花壇の匂いが鼻先を撫でた。追い出す理由も——見つからなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ