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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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お姉ちゃん

 フィルが走ってきたのは、昼下がりのことだった。


 リーリエが庭を歩いていると——最近は散歩が習慣になりつつあった——小さな足音が背後から近づいてきた。


「お姉ちゃん!」


 振り返る間もなく、小さな身体がリーリエの腰にしがみついた。


「フィル。離してください」


「やだ! お姉ちゃんあったかい!」


 小さな角がリーリエの服に引っかかっている。金色の目が見上げてきて、満面の笑みを浮かべている。


「離してくださいと言っています」


「やだやだ! だっこして!」


「体力的に不可能です」


「じゃあ手をつないで!」


 フィルが腰から離れ、代わりにリーリエの手を両手で握った。小さくて温かい手。指の力は弱いのに、離す気が全くない。


 リーリエは溜息をついた。


「……好きにしなさい」


「やった!」


 フィルがリーリエの手を握ったまま、庭を歩き出す。引っ張られるように歩くリーリエの歩幅に、フィルが合わせようとして——すぐに我慢できずに駆け出す。


「お姉ちゃん、あっちにちょうちょがいたよ!」


「走らないでください。転びますよ」


 秋の風が落ち葉を巻き上げ、庭の石畳の上を乾いた音を立てて転がしていく。日差しは穏やかだが、影に入ると肌寒い。


「てんばない!」


 転ばない、と言った三秒後にフィルが石につまずいて転んだ。膝を擦りむいて、金色の目に涙が浮かぶ。


「……だから言ったでしょう」


 リーリエはしゃがみ込み、フィルの膝を見た。小さな擦り傷。血は出ていない。


「大丈夫です。傷は浅いですよ」


「いたい……」


「少しだけ痛いでしょうね。でも、すぐ治ります」


 リーリエの手が、フィルの膝の土を払った。丁寧に、優しく。それから——


 無意識に、フィルの頭を撫でていた。


 小さな角の間を、指先が滑る。栗色の柔らかい髪が、掌に触れる。教会で覚えた仕草ではない。誰かに教わったものでもない。身体が勝手に動いた。


「えへへ」


 フィルが泣き顔のまま笑った。涙と笑顔が混ざった表情で、リーリエの手に頬を寄せる。


「お姉ちゃんの手、あったかい」


「……そうですか」


 リーリエの手が止まった。


 自分が何をしているのか、気づいた。


 頭を、撫でている。この子の頭を。自分の手が、誰かの頭を撫でている。


「……何を」


 呟いた。手を引こうとした。けれどフィルが「もっと」と言って頭を押しつけてくる。


「もっとなでて!」


「いえ、私は——」


「お姉ちゃん、なでるのじょうず!」


 上手いはずがなかった。記憶にある限り、リーリエは誰かの頭を撫でたことなどない。撫でられたことも、ほとんどない。


 けれど手は動いた。フィルの頭を、ゆっくりと。


 渡り廊下の上で、リュカが立ち尽くしていた。


「ヴェルナーさん」


「ええ。見えています」


 ヴェルナーが隣に立ち、庭を見下ろしている。リーリエがフィルの頭を撫でる姿を、二人は黙って見つめていた。


「お嬢、あの子の頭撫でてる……」


「聖女殿が自発的に他者に触れるのは、初めてですな」


「ヴェルナーさん、俺ちょっと泣きそうなんすけど」


「私もです。ですが従者として取り乱すわけには」


 リュカが袖で目元を拭い、ヴェルナーが眼鏡を外して丁寧に磨いた。レンズが少し曇っていた。


 庭の片隅で、フィルがリーリエに抱きついていた。リーリエは困った顔をしている。眉を僅かに寄せ、口元は「やめなさい」と動いている。けれど手はフィルの背中に添えられていて、押しのける力は入っていない。


 あの手は、フィルの頭を撫でた手だ。凍った心の奥から、無意識に漏れ出した優しさの証。教会では「聖女は万人を等しく慈しむ」と教えられた。等しく——つまり、誰にも特別ではなく。けれどリーリエの手は今、一人の子供の頭に触れている。等しくではなく、この子だけに。


 その光景を——柱の陰から、もう一人が見ていた。


 カイン。


 深紅の瞳が、リーリエを見つめている。


 リーリエがフィルの頭を撫でる。小さな子供の髪に指を通す。その仕草に——


 数百年前の記憶が、重なった。


 あの人も、子供の頭を撫でるのが好きだった。城下の子供たちが駆け寄ると、膝をつき、一人ひとりの頭を撫でていた。「この子たちのために、世界を守りたいの」と笑って言っていた。


 同じだ。仕草が、指の動かし方が、子供に向ける目線の角度が——


「……違う」


 カインが呟いた。拳を握る。指の関節が白くなる。


「あの子は、リーリエだ」


 わかっている。わかっているのに、心が勝手に重ねてしまう。リーリエの中に、失った人の面影を探してしまう。


 それは——リーリエに対する裏切りではないのか。


 リーリエは今、フィルの頭を撫でている。凍った心の奥から、本来の優しさが漏れ出している。この瞬間はリーリエのものだ。過去の誰かの代わりではない。


 なのに俺は——。


「旦那様」


 リュカの声に、カインは我に返った。いつの間にかリュカが隣に立っていた。


「お嬢、笑ってはいないっすけど——あの顔、悪くないっすよね」


 庭を見下ろす。リーリエの表情は穏やかだった。笑顔ではない。けれど「無」でもない。困惑と戸惑い、そしてほんの僅かな——温かさ。


「ああ」


 カインは短く答えた。


「悪くない」


 リュカがそれ以上何も言わず、去っていった。


 庭では、フィルがリーリエの手を引いて花壇に向かっていた。「お姉ちゃん、あの花の名前おしえて!」と叫んでいる。リーリエが「エーデルフラウです」と淡々と答えている。


 凍った心に、確かなひび割れが入っている。


 子供の温もりが、花の名前が、毎日の食事が、窓辺の花が、嵐の夜の足音が——少しずつ、少しずつ、リーリエの氷を溶かし始めている。溶けた水がどこに行くのかは、まだ誰にもわからない。再び凍るのか。それとも——流れ出すのか。


 けれど同時に、カインの中では過去の影が揺れている。


 二人の間には、まだ語られていない巨大な秘密がある。五百年の歴史が、初代聖女の記憶が、聖女制度の真実が——いつか、二人の前に立ちはだかる日が来る。


 今はまだ、春の庭で。子供の声と、花の匂いの中で。


 リーリエの手が、小さな頭を撫でている。


 それだけが——確かなことだった。


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