嵐の夜
嵐の夜だった。
夕方から空が暗くなり、雷鳴が城を震わせ始めた。稲光が窓を白く照らすたびに、リーリエの影が壁に揺れる。豪雨が窓を叩く音は途切れることなく、城全体が嵐に包まれていた。
リーリエは窓辺に座っていた。柵越しに、嵐の夜空を見つめている。
眠れなかった。
嵐の夜は、いつも眠れない。教会にいた頃からそうだった。別に雷が怖いわけではない。痛みに比べれば雷など些細なものだ。
眠れないのは——嵐の夜が、孤独と結びついているからだった。
教会の聖女の間は、地下にあった。嵐の夜、地上では雷が轟き、雨が打ちつけ、修道士たちは部屋に籠もる。地下の聖女の間には、雷の音だけがくぐもって届く。水滴が壁を伝い、石の床が冷たく光る。
誰も来なかった。
水滴が石壁を伝い落ちる音だけが、闇の中で規則的に響いていた。冷たい石の床が足裏から体温を奪い、天井の低さが肩に圧しかかるようだった。
嵐の夜は、誰も聖女の様子を見に来ない。薬も、水も、言葉もなく、リーリエは一人で暗い部屋に横たわり、天井を見つめていた。身体は灼けている。外では嵐が吹き荒れている。そして誰も来ない。
その記憶が、嵐のたびに蘇る。
リーリエは膝を抱えた。寒いわけではない。暖炉に火が入っている。薪が爆ぜる音がぱちぱちと響き、橙色の光が壁に揺れている。毛布も十分にある。柔らかい布の感触が肌を包んでいる。教会の地下とは比べものにならないほど温かい部屋だ。
けれど嵐の音が、身体の奥の記憶を引き出す。
誰も来ない夜。
冷たい床。
一人。
雷鳴が轟いた。窓が白く光り、一瞬だけ庭が昼のように照らされた。カインが植えた花壇の花が、風に煽られて大きく揺れている。
雷が近くで落ちた。轟音が城壁を震わせ、窓ガラスが悲鳴のように鳴った。リーリエは身体を強張らせた。雷が怖いのではない。ただ、大きな音は教会の鐘を連想させる。
いつまでこうしているのだろう。嵐が去るまで。そして朝が来て、またいつもの日が始まる。食事をし、死のうとし、止められ、花を見て、茶を飲み、眠る。その繰り返し。
その時——扉の向こうから、微かな気配がした。
足音。
ごく小さな足音だった。足音を殺そうとしている。けれど完全には殺しきれていない。一定の間隔で、扉の前を通り過ぎていく。行って、戻って、行って、戻って。
カインだった。
足音の重さ、歩幅の広さ。間違いない。カインが廊下を歩いている。リーリエの部屋の前を、行ったり来たりしている。
見回りをしているのだ。
嵐の夜に。リーリエが眠れないかもしれない夜に。わざわざ廊下を歩いて、部屋の前を通って、聖女の無事を確認している。
扉をノックするわけではない。声をかけるわけでもない。ただ歩いているだけ。リーリエが気づかなければ、知られることもない。
けれどリーリエには聞こえていた。
足音が通り過ぎるたびに、嵐の音が少しだけ遠くなる。廊下を歩く気配が、扉の向こうに確かに存在している。
重い足音。けれど荒々しくはない。むしろ静かに、リーリエを起こさないよう気を遣っているのがわかる。完璧には殺しきれない足音。それが逆に——この人が必死であることを伝えていた。
誰かが——いる。
教会の地下とは違う。ここには、嵐の夜に歩いている人がいる。
リーリエは扉を開けなかった。声もかけなかった。ただ窓辺に座ったまま、足音を聞いていた。
行って、戻って。行って、戻って。
規則的な足音は、やがて雨音と混ざり合い、奇妙な安らぎを生んだ。嵐の夜の孤独が、ほんの少しだけ薄らいでいく。
リーリエは膝を抱えたまま目を閉じた。
足音が聞こえている。
それだけのことだった。それだけのことなのに——瞼が重くなった。身体の灼熱は変わらない。嵐も収まっていない。けれど、眠れそうな気がした。
いつの間にか、眠っていた。
翌朝。
目覚めたとき、リーリエは自分がいつもより長く眠ったことに気づいた。窓から差し込む光は朝のものではなく、すでに昼に近い高さだった。嵐は去り、洗われた空が青く澄んでいる。
「あ、お嬢起きたっすか! おはようございます。いや、こんにちはかな」
リュカが朝食——もはや昼食だが——を持ってきた。
「よくお休みになれましたか?」
「……ええ。なぜか」
なぜか。自分でもわからなかった。嵐の夜はいつも眠れないのに、昨夜は深く眠った。
食堂に向かうと、カインがすでに席に座っていた。いつものように腕を組んで——しかし今日は、いつもより目の下の隈が濃い。
「おはようございます」
「ああ」
「……寝不足ですか」
リーリエの問いに、カインが僅かに目を見開いた。リーリエが相手の体調を気にかけるのは、これが初めてだった。
「問題ない」
「目の下に隈があります」
「問題ない」
「見回りをしていたのですか」
カインの動きが止まった。ほんの一瞬、深紅の瞳が揺れた。
「……風の音が気になっただけだ」
「そうですか」
リーリエはそれ以上追及しなかった。花茶のカップを持ち上げ、一口飲む。いつもと同じ味。いつもと同じ温度。
けれど今日のカインは、茶を淹れる手が少し遅かった。疲れているのだ。一晩中、廊下を歩いていたのだから。
リーリエは知っていた。足音の正体を。嵐の夜に、扉の向こうを歩いていた人を。
「カインさま」
「何だ」
「よく眠れました。ありがとうございます」
カインが一瞬、固まった。
リーリエは何も説明しなかった。ただ花茶を飲み続けた。カインは視線を逸らし、「……そうか」とだけ答えた。
その耳が、僅かに赤い。
リュカが遠くから「お、旦那様照れてる」と小声で言い、ヴェルナーに「黙りなさい」と窘められた。
リーリエはカップの縁から、カインの横顔を見つめた。
なぜか——と思った。
なぜ、この人がいると安心するのか。教会にいた頃は、誰がそばにいても同じだった。いてもいなくても、痛みは変わらなかった。けれどカインがいると——痛みの輪郭が、ほんの僅かだが丸くなる。鋭かった棘が削られるように。
答えは出なかった。出さなくてもいい、とリーリエは思った。今はまだ。
窓の外では雲の切れ間から陽光が差し、洗われた庭が光を受けて輝いていた。花壇の花は嵐に耐えて、まだ咲いている。




