庭の散歩
お天気がいいですよ、とリュカが言った。
「お嬢、庭歩きません? 花が咲き始めてるんすよ。旦那様が植えたやつ」
「理由がありません」
「花が綺麗ですよ。理由はそれだけでいいんす」
理由はそれだけでいい。この城の住人たちは、何かにつけてそう言う。理由がなくても構わない。意味がなくても構わない。ただ「綺麗だから見る」でいいのだと。教会では全てに意味が求められた。祈りには意味があり、食事には意味があり、生きることにも意味が必要だった。意味のない行為は罪だった。
リーリエは本から目を上げた。リュカが窓を指差している。確かに空は晴れていて、春の光が庭に降り注いでいた。窓越しにでも、花壇の色が見える。白、薄紫、淡い青。風が吹くたびに、花が一斉に同じ方向に揺れている。
「……そうですか」
立ち上がった。
拒否しなかった自分に、特に理由はなかった。強いて言えば、書庫の空気に飽きたからかもしれない。飽きる、という感覚が戻りつつあること自体、以前のリーリエには考えられないことだったが。
庭に出ると、空気が変わった。室内の埃っぽさとは違う、土と草と花の匂い。風が銀灰色の髪を揺らし、リーリエは無意識に目を細めた。
「お嬢、こっちこっち」
リュカが先に立って歩く。庭は広かった。城壁に沿って花壇が整備され、小さな泉水があり、木々が木陰を作っている。リーリエが魔王城に来てからまだ一週間程度だが、庭の様子は以前と変わっている——カインが手を入れているのだ。
「ほら、これ。エーデルフラウっていうんすよ。白い花」
リュカが花壇の前でしゃがみ込み、白い花を指差した。小さな花弁が五枚、清楚に開いている。
「知っています。以前マリ——いえ、本で読みました」
「本で? お嬢、花の本も読むんすか」
「教会の書庫にありました。薬草と毒草の図鑑ですが」
「毒草の方に興味あったんじゃないっすよね……?」
「ノーコメントです」
リュカが冷や汗を流しつつ、次の花を示した。
「で、こっちがフェンリヒト。夜になると光るんすよ。旦那様がわざわざ山から持ってきた株で——」
「光るのですか」
「ええ。お嬢の部屋の窓から見えるように植えてあるんす。夜になったら庭見てみてください。綺麗っすよ」
リーリエは白い花弁に目を落とした。
「……覚えても仕方ないのに」
呟きは、風に紛れるほど小さかった。
「仕方ないっすか?」
リュカが聞き返した。リーリエは少しだけ驚いた。聞こえていたのか。
「はい。私はここに長くいるわけではありませんから。花の名前を覚えても——」
「仕方なくてもいいじゃないすか」
リュカの声は軽かった。いつもの調子で、深刻さの欠片もなく。
「綺麗なものは綺麗っすよ。それだけでいいじゃないすか」
リーリエは何も言わなかった。
二人は庭を一周した。リュカは花の名前を一つずつ教えてくれた。エーデルフラウ、フェンリヒト、ヴァイスグロッケ、ブリュンネンクラウト。どれもカインが植えたか、ヴェルナーが手配したものだという。
リーリエは花の形を見つめた。五枚の花弁、六枚の花弁、鈴のような形、星のような形。それぞれに違う色、違う香り、違う手触り。知識としては知っていた。教会の書庫で図鑑を読んだことがある。けれど実物を目の前にして、名前を教わりながら見るのは——初めてだった。
図鑑の絵は正確だったが、風に揺れる花の動きは描かれていなかった。光を受けて変わる花弁の色も、指先に触れたときの柔らかさも。
「この辺の花、全部旦那様が管理してるんすよ。あの人、見た目に反して園芸好きっていうか——いや、好きかどうかは知らないっすけど、お嬢が来てから急に庭いじり始めたんで」
「……そうですか」
「旦那様は昔からこの城に住んでるんすけど、庭に花なんか植えたことなかったっすよ。俺がここに来て五十年、ずっと雑草だらけだったのに」
五十年。
リーリエは少しだけ足を止めた。リュカは「外見年齢二十代前半」に見えるが、魔族だから実年齢はもっと上だ。五十年もカインの側にいた。
「カインさまは、どのような方ですか」
「え? 急にどうしたんすか」
「質問しただけです。答えなくても構いません」
「いや、答えますよ。そうっすねぇ——」
リュカが空を見上げた。春の雲が、のんびりと流れている。
「不器用な人っすよ。五十年仕えてますけど、あの人が笑ったの、数えるほどしか見たことないっす。いっつも難しい顔して、古い本読んで、夜中まで何か調べてて。たまに『リュカ、飯はいい』って言うから、俺が無理やり食わせるんすけど」
リュカがくすりと笑った。
「でもね、お嬢。旦那様がお嬢を拾ってきた日——あの人の目、久しぶりに生きてたんすよ。五十年間で一番、人間らしい顔してた」
リーリエは黙って聞いていた。
「だからまあ、お嬢には感謝してるんす、俺。旦那様を変えてくれて」
「変えた覚えはありません」
「変わったんすよ。お嬢が気づいてないだけで」
リュカはそれ以上何も言わず、「あ、あっちにも花あるっすよ」と話題を変えた。
翌日。
リーリエは一人で庭に出た。
誰にも言わず、朝食の後に庭に向かった。昨日リュカに教わった花壇の前に立ち、しゃがみ込む。
白い花。エーデルフラウ。
「エーデルフラウ」
口の中で呟いた。
隣の花。細い茎に薄青の花弁。
「フェンリヒト」
その隣。鈴のような形の白い花。
「ヴァイスグロッケ」
覚えている。覚えようとしたわけではないのに、全部覚えている。
リーリエは自分の記憶に、少しだけ戸惑った。仕方ないと言ったはずだ。覚えても意味がないと。それなのに——。
「……仕方ない」
呟いて、立ち上がった。
それ以上考えなかった。考えたくなかった。花の名前を覚えてしまったことが何を意味するのか、リーリエはまだ——考えたくなかった。
けれど翌日もリーリエは庭に出た。
そして、新しく咲いた花の名前をリュカに聞いた。
リュカは嬉しそうに教えてくれた。「ローゼンシュテルン」——星の形をした薔薇色の花。その名前も、リーリエは一度で覚えた。覚えようとしたわけではない。けれど耳が、手が、鼻が——花の全てを記憶してしまう。
仕方のないことだ、とリーリエは思った。仕方ないことが、少しずつ増えている。




