名前を呼ぶとき
名前を呼ぶのが、怖い。
カインは自分でもわかっていた。リーリエの名を口にするたび、喉の奥で別の名前が引っかかる。
リー——。
そこまで出かけて、飲み込む。舌の上で修正する。
「リーリエ」
違う名前。違う人。わかっている。わかっているのに。
朝。カインは花茶を持って書庫に向かった。いつもの時間、いつもの温度。カップの縁から立ち上る湯気が、廊下の冷たい空気に触れて白く揺れている。リーリエが午後に読書をする書庫に、茶を届ける。この習慣がいつから始まったのか——考えれば数日前のことにすぎないのに、もう何年も続けてきたような錯覚がある。
書庫の扉を開けた。
リーリエが窓辺の椅子に座り、古い書物を読んでいた。銀灰色の髪が光を受けて薄紫に光っている。白い肌、華奢な指先、ページをめくる仕草。
カインの足が止まった。
一瞬——ほんの一瞬だけ、別の人が見えた。同じ書庫で、同じ窓辺で、同じように本を読んでいた人。銀ではなく金色の髪。けれど背中の線、首の傾け方、ページに集中する横顔が——
「カインさま」
リーリエの声で、幻が消えた。
「茶を、持ってきた」
カインは動揺を押し殺して歩み寄り、机の上にカップを置いた。
「リー……リーリエ」
一瞬の間。
喉の奥で引っかかった名前を飲み込み、正しい名前を押し出す。この癖はもう何度目だろう。
「何ですか」
リーリエは気づいていない。気づくはずがない。この名前の「間」が何を意味するかなど、知りようがない。
「……体調はどうだ」
「いつも通りです。灼けています」
「そうか」
灼けている。結界が命を吸い上げる苦痛。カインはその仕組みを知っている。聖女の力が世界の結界を維持する代償として、命そのものが燃料にされる。五百年前、同じ仕組みを止めようとして——止められなかった。
「カインさま、お座りになりませんか。ここから出入り口が見えますので、私が逃げ出す心配はありません」
「……そういう意味で来たんじゃない」
「冗談です」
リーリエの薄い青紫の瞳が、一瞬だけカインを捉えた。冗談、と本人は言った。声に抑揚はなく、表情も動いていない。けれどリーリエが冗談を言うこと自体が——数日前にはなかったことだ。
カインは椅子を引いて座った。リーリエの向かい、窓を背にした位置。二人の間にテーブルがあり、花茶の湯気が静かに立ち上っている。
しばらく無言で読書が続いた。リーリエが本を読み、カインは古い文献を広げた。聖女の命を結界から切り離す方法を探して五百年。まだ答えは見つかっていない。
ページをめくる音が、静かに書庫に響く。
ふと、音が止まった。
カインが文献から目を上げると、リーリエがうたた寝をしていた。
本を開いたまま、椅子にもたれかかっている。銀灰色の髪が顔にかかり、規則的な寝息が微かに聞こえる。
無防備だった。
教会から逃げ出し、魔王に拾われ、知らない城に住み始めてまだ数日の少女が、こうも無防備に眠れるものだろうか。
それとも——無防備なのではなく、自分の安全に無関心なだけか。
カインの手が動いた。
リーリエの顔にかかった髪を払おうと、指先が伸びる。銀灰色の細い髪が窓からの光に薄紫の影を落としている。あと数寸。指先が髪に触れかけた瞬間、カインの呼吸が止まった。
止まった。
これは「リーリエ」にしている行為なのか。
それとも。
五百年前、同じ書庫で。同じように眠った人の髪を、払ってやったことがある。あの時は迷わなかった。自分が何をしているのか理解していた。誰の髪を触っているのか、わかっていた。
今は。
カインは手を引いた。
指先が微かに震えていることに気づき、拳を握って隠した。
「……すまない」
聞こえないほど小さく呟いた。誰に謝っているのか。リーリエに対してか。それとも——五百年前に失った人に対してか。
リーリエが微かに身じろぎした。起きたかと思ったが、寝返りを打っただけだった。椅子の背もたれに頬を押し付けて、穏やかな寝顔を見せている。
起きているときのリーリエは、常にどこか張り詰めていた。感情は凍結しているように見えるが、その奥で痛みに耐え続けている。身体の内側を灼く結界の力。一瞬も途切れない苦痛。それを表に出さないことで成り立つ、危うい均衡。
眠っているときだけ、その均衡が緩む。頬の力が抜け、眉間の皺が消え、年相応の少女の顔になる。十七歳。まだ子供と言っていい歳だ。
カインは立ち上がり、自分の外套を脱いでリーリエの肩にかけた。風が冷たい。書庫は暖炉から遠い。それだけのことだ——と、自分に言い聞かせる。
書庫を出た。
足音を殺して扉を閉めた。リーリエの寝息が途切れないことを確認してから、静かに。扉の把手から手を離す瞬間、指先が微かに震えていることにカイン自身は気づかなかった。
廊下を歩きながら、カインは自室に向かった。窓の外は夕暮れから夜に移りかけていて、廊下の松明が橙色の光を壁に投げている。
夜。
古い文献の山に囲まれた机の前で、カインは頭を抱えていた。
リーリエの身体から引き出される力の量。結界の維持に必要な命の消費速度。古代の記録と照合すれば、リーリエに残された時間がどれだけあるか——概算はできる。
けれど今夜は計算に集中できなかった。
リーリエの寝顔が、脳裏にこびりついている。
「俺はあの子を——リーリエを見ているのか」
声に出した。暗い部屋に、自分の声だけが反響する。
「それとも、また——同じ過ちを繰り返そうとしているのか」
答えはない。五百年間、答えのない問いを抱え続けてきた。
机の引き出しの奥に、古い手紙が一通ある。色褪せた紙に、もう読めないほど薄くなった文字。差出人の名前だけが、かろうじて残っている。
カインはその引き出しに手をかけ——開けずに手を引いた。
今は、まだ。
「俺は——お前を見ている。リーリエ」
闇に向かって呟く。蝋燭の炎が揺れ、影が壁の上で大きく動いた。引き出しの中の手紙が、見えない重力で手を引いている。開けたい。開けたくない。五百年前の文字を、もう一度読みたい。読めば壊れる。
今は、この言葉が嘘でないことを祈るしかなかった。窓の外で風が木々を揺らし、遠くで夜鳥の声がした。




