表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/71

名前を呼ぶとき

 名前を呼ぶのが、怖い。


 カインは自分でもわかっていた。リーリエの名を口にするたび、喉の奥で別の名前が引っかかる。


 リー——。


 そこまで出かけて、飲み込む。舌の上で修正する。


「リーリエ」


 違う名前。違う人。わかっている。わかっているのに。


 朝。カインは花茶を持って書庫に向かった。いつもの時間、いつもの温度。カップの縁から立ち上る湯気が、廊下の冷たい空気に触れて白く揺れている。リーリエが午後に読書をする書庫に、茶を届ける。この習慣がいつから始まったのか——考えれば数日前のことにすぎないのに、もう何年も続けてきたような錯覚がある。


 書庫の扉を開けた。


 リーリエが窓辺の椅子に座り、古い書物を読んでいた。銀灰色の髪が光を受けて薄紫に光っている。白い肌、華奢な指先、ページをめくる仕草。


 カインの足が止まった。


 一瞬——ほんの一瞬だけ、別の人が見えた。同じ書庫で、同じ窓辺で、同じように本を読んでいた人。銀ではなく金色の髪。けれど背中の線、首の傾け方、ページに集中する横顔が——


「カインさま」


 リーリエの声で、幻が消えた。


「茶を、持ってきた」


 カインは動揺を押し殺して歩み寄り、机の上にカップを置いた。


「リー……リーリエ」


 一瞬の間。


 喉の奥で引っかかった名前を飲み込み、正しい名前を押し出す。この癖はもう何度目だろう。


「何ですか」


 リーリエは気づいていない。気づくはずがない。この名前の「間」が何を意味するかなど、知りようがない。


「……体調はどうだ」


「いつも通りです。灼けています」


「そうか」


 灼けている。結界が命を吸い上げる苦痛。カインはその仕組みを知っている。聖女の力が世界の結界(ヴェール)を維持する代償として、命そのものが燃料にされる。五百年前、同じ仕組みを止めようとして——止められなかった。


「カインさま、お座りになりませんか。ここから出入り口が見えますので、私が逃げ出す心配はありません」


「……そういう意味で来たんじゃない」


「冗談です」


 リーリエの薄い青紫の瞳が、一瞬だけカインを捉えた。冗談、と本人は言った。声に抑揚はなく、表情も動いていない。けれどリーリエが冗談を言うこと自体が——数日前にはなかったことだ。


 カインは椅子を引いて座った。リーリエの向かい、窓を背にした位置。二人の間にテーブルがあり、花茶の湯気が静かに立ち上っている。


 しばらく無言で読書が続いた。リーリエが本を読み、カインは古い文献を広げた。聖女の命を結界から切り離す方法を探して五百年。まだ答えは見つかっていない。


 ページをめくる音が、静かに書庫に響く。


 ふと、音が止まった。


 カインが文献から目を上げると、リーリエがうたた寝をしていた。


 本を開いたまま、椅子にもたれかかっている。銀灰色の髪が顔にかかり、規則的な寝息が微かに聞こえる。


 無防備だった。


 教会から逃げ出し、魔王に拾われ、知らない城に住み始めてまだ数日の少女が、こうも無防備に眠れるものだろうか。


 それとも——無防備なのではなく、自分の安全に無関心なだけか。


 カインの手が動いた。


 リーリエの顔にかかった髪を払おうと、指先が伸びる。銀灰色の細い髪が窓からの光に薄紫の影を落としている。あと数寸。指先が髪に触れかけた瞬間、カインの呼吸が止まった。


 止まった。


 これは「リーリエ」にしている行為なのか。


 それとも。


 五百年前、同じ書庫で。同じように眠った人の髪を、払ってやったことがある。あの時は迷わなかった。自分が何をしているのか理解していた。誰の髪を触っているのか、わかっていた。


 今は。


 カインは手を引いた。


 指先が微かに震えていることに気づき、拳を握って隠した。


「……すまない」


 聞こえないほど小さく呟いた。誰に謝っているのか。リーリエに対してか。それとも——五百年前に失った人に対してか。


 リーリエが微かに身じろぎした。起きたかと思ったが、寝返りを打っただけだった。椅子の背もたれに頬を押し付けて、穏やかな寝顔を見せている。


 起きているときのリーリエは、常にどこか張り詰めていた。感情は凍結しているように見えるが、その奥で痛みに耐え続けている。身体の内側を灼く結界の力。一瞬も途切れない苦痛。それを表に出さないことで成り立つ、危うい均衡。


 眠っているときだけ、その均衡が緩む。頬の力が抜け、眉間の皺が消え、年相応の少女の顔になる。十七歳。まだ子供と言っていい歳だ。


 カインは立ち上がり、自分の外套を脱いでリーリエの肩にかけた。風が冷たい。書庫は暖炉から遠い。それだけのことだ——と、自分に言い聞かせる。


 書庫を出た。


 足音を殺して扉を閉めた。リーリエの寝息が途切れないことを確認してから、静かに。扉の把手から手を離す瞬間、指先が微かに震えていることにカイン自身は気づかなかった。


 廊下を歩きながら、カインは自室に向かった。窓の外は夕暮れから夜に移りかけていて、廊下の松明が橙色の光を壁に投げている。


 夜。


 古い文献の山に囲まれた机の前で、カインは頭を抱えていた。


 リーリエの身体から引き出される力の量。結界の維持に必要な命の消費速度。古代の記録と照合すれば、リーリエに残された時間がどれだけあるか——概算はできる。


 けれど今夜は計算に集中できなかった。


 リーリエの寝顔が、脳裏にこびりついている。


「俺はあの子を——リーリエを見ているのか」


 声に出した。暗い部屋に、自分の声だけが反響する。


「それとも、また——同じ過ちを繰り返そうとしているのか」


 答えはない。五百年間、答えのない問いを抱え続けてきた。


 机の引き出しの奥に、古い手紙が一通ある。色褪せた紙に、もう読めないほど薄くなった文字。差出人の名前だけが、かろうじて残っている。


 カインはその引き出しに手をかけ——開けずに手を引いた。


 今は、まだ。


「俺は——お前を見ている。リーリエ」


 闇に向かって呟く。蝋燭の炎が揺れ、影が壁の上で大きく動いた。引き出しの中の手紙が、見えない重力で手を引いている。開けたい。開けたくない。五百年前の文字を、もう一度読みたい。読めば壊れる。


 今は、この言葉が嘘でないことを祈るしかなかった。窓の外で風が木々を揺らし、遠くで夜鳥の声がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ