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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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小さな影

 フィルは翌日も現れた。


 朝食の席にリーリエが座ると、テーブルの下から金色の目が覗いていた。


「お姉ちゃん、おはよ!」


「……おはようございます」


 リュカが「フィル、朝ごはん中は大人しくしてろって——」と追いかけてくるが、フィルはリーリエの椅子の隣に陣取り、動く気配がない。カインが「好きにさせろ」と言い、結局フィルはリーリエの隣で朝食を食べることになった。


 食後、フィルはリーリエの後をついて回った。


 書庫に行けばフィルがいる。庭に出ればフィルがいる。部屋に戻ろうとすると扉の前にフィルがいる。


「ついてこないでください」


「やだ」


「迷惑です」


「めいわくってなに?」


「困るということです」


「じゃあ困らなければいいんだよ!」


 論理が破綻しているのに反論できない。子供の論理は時として鉄壁だった。言葉の鎧を持たない代わりに、真っ直ぐさという最強の盾を持っている。


 リーリエは溜息をついた。長い息が白く曇り、秋の空気に溶けていった。庭の片隅で枯葉が風に巻かれ、乾いた音を立てて石畳を滑っている。陽光は柔らかいのに、空気の底に冬の気配が忍んでいた。


 溜息。ここ数日、溜息をつく回数が増えている気がする。以前は溜息すら出なかった。溜息は不満や疲労の表現であり、表現するためには感情のエネルギーが必要だ。それが足りなかったのだ。


 今は——ほんの少しだけ、溜息をつく余裕がある。この城に来てからのことだった。


「お姉ちゃん、今日はなにするの?」


「死にます」


「えー、やだ。おえかきしよ?」


「死にたいと言ったのですが」


「おえかきのほうがたのしいよ!」


 フィルがリーリエの手を引いて庭に連れ出した。地面に枝で絵を描き始める。丸い顔、棒の体、四本の手足。


「これお姉ちゃん!」


「……似ていませんね」


「にてるよ! かわいいでしょ!」


 リーリエは地面に描かれた自分の似顔絵——似顔絵と呼ぶにはあまりに抽象的な絵を見つめた。丸い顔に線の目と口。それだけの絵なのに、フィルは「かわいい」と言う。


「お姉ちゃんもかいて!」


「絵は得意ではありません」


「へたでもいいよ!」


 リーリエは枝を受け取った。地面に——何を描けばいいのかわからなかった。描きたいものが思い浮かばない。教会では祈りと学問以外のことをする時間はなかった。絵を描いた記憶がない。村にいた頃は——もう覚えていない。


 花を描いた。理由はわからない。ただ手が動いた。不格好な花弁が五つ、丸い中心から伸びている。カインが庭に植えた花に似ているかもしれないが、似ていないかもしれない。


「お花! かわいい! お姉ちゃん、じょうずだね!」


「上手ではないです。見ればわかります」


「じょうずだよ!」


 フィルの無条件の肯定は、リーリエのあらゆる否定を無効化した。「上手ではない」と言っても「上手だ」と返される。「意味がない」と言っても「楽しい」と返される。


 絵を描き終えたフィルが、不意にリーリエの顔を覗き込んだ。


「お姉ちゃん、笑って?」


「……え?」


 リーリエは声を失った。その二語が、不意に胸を突いた。「笑って」と頼まれたのは——いつ以来だろう。教会では誰もそんなことを言わなかった。聖女に求められたのは祈りと忍耐だけだった。


「みんな笑うとかわいいよ。お姉ちゃんも笑ったらもっとかわいいと思う!」


 笑う。


 リーリエは口角を上げようとした。頬の筋肉に力を入れ、唇の端を持ち上げ——


 動かなかった。


 正確には、動いた。口元は笑みの形を作った。けれどそれは筋肉の運動でしかなく、「笑顔」ではなかった。目は笑っていない。頬は引きつっている。鏡がなくてもわかる——これは笑顔ではない。


 リーリエの目が、僅かに見開かれた。


 笑えない。


 笑い方を、忘れている。


 最後に笑ったのはいつだっただろう。教会に来る前。村にいた頃。母の手を握って笑っていた——あれが最後だっただろうか。もう五年以上前のことだ。


「できないの?」


 フィルが首を傾げた。小さな角が陽光を受けて微かに光っている。金色の瞳には不思議そうな色が浮かんでいるだけで、責めているのではない。純粋な疑問だ。笑えない人がいるということが、この子には想像もつかないのだろう。


「……すみません。今は、少し——」


「じゃあぼくが笑わせてあげる!」


 フィルが叫んだ。小さな手をぎゅっと握りしめ、満面の笑みで宣言する。陽光がフィルの栗色の髪を金色に透かし、小さな角が虹色の光を弾いていた。


「ぼく、おもしろいこといっぱい知ってるんだよ! だからお姉ちゃんのこと笑わせてあげる! 約束!」


 リーリエは答えられなかった。


「約束」。その言葉が、胸の奥の凍った場所を小さく叩いた。


「……ありがとうございます」


 口から出た言葉は、いつもの淡々とした声。けれどフィルは満足そうに笑い、リーリエの手を握ったまま庭を駆け回り始めた。


 渡り廊下の柱の陰に、カインがいた。


 リーリエが笑おうとして——できなかった瞬間を、見ていた。


 カインの表情が揺れた。


 数百年前。同じ光景を見たことがある。あの人も——子供の前で笑おうとして、笑えなくなった日があった。限界が近かった。心が壊れる前兆だった。


 カインの拳が握りしめられ、指の関節が白くなった。


「……違う」


 低い呟き。自分に言い聞かせるように。


「リーリエは違う。同じにはさせない」


 あの人は手遅れだった。笑えなくなったとき、すでに限界を超えていた。気づいたときには遅かった。救えなかった。


 だが——リーリエはまだここにいる。まだ手が届く。


 柱の陰から見える庭では、フィルがリーリエの周りをぐるぐる回っている。リーリエは戸惑った顔で子供を見つめている。笑えない。けれど目を逸らしてもいない。フィルの話を、聞いている。


 笑えない少女と、笑わせようとする子供。


 カインはその光景を、苦しそうに——けれどどこか祈るように、見つめていた。喉の奥で飲み込んだ息が、胸の中で重く沈んでいく。拳の力が抜け、指が開かれた。風が渡り廊下を通り抜け、庭の花壇の匂いを運んできた。陽光が暖かく、子供の笑い声が空気を震わせている。


 五百年の中で——こんな午後がいくつあっただろう。光と影が混じり合う、苦しくて温かい午後が。


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