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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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大司教との再対峙

 地下通路を進む二人の前に——広間が開けた。


 城塞の地下、聖なる炉へと続く大広間。天井が高く、壁一面に古い紋章が刻まれている。聖術の灯りが青白く空間を照らし、空気が冷たく澄んでいる。


 広間の中央に——人影があった。


 白金の法衣。灰色の髪。穏やかな微笑み。


 大司教グレゴリウスが、二人を待っていた。


「お待ちしておりました」


 グレゴリウスが言った。声は穏やかだった。広間に反響して、壁の紋章を揺らすような響きがある。


「魔王カイン。——そして、レオンハルト団長」


 グレゴリウスの灰色の瞳がレオンハルトに向けられた。蝋燭の灯りが法衣に長い影を落としている。足元に刻まれた紋章が、三人の間で青白く脈動していた。失望ではない。むしろ——予想通りだ、と言いたげな表情。


「やはり、あなたも来ましたか。残念です」


 レオンハルトの拳が握られた。「大司教。あなたに——」


「後にしろ」


 カインが遮った。


 カインはレオンハルトの前に一歩踏み出し、グレゴリウスと正面から向き合った。深紅の瞳が灰色の瞳を射抜く。


「リーリエを返せ」


 短い言葉。余計なものが一切ない。怒りも、交渉も、脅しもない。ただ——要求。


 グレゴリウスの微笑みが——深くなった。


「やはりあなたは——」


「余計な口を叩くな」


 カインが一歩踏み込んだ。グレゴリウスの言葉を、物理的な圧力で遮った。


 グレゴリウスは動かなかった。微笑みを崩さず、カインを見上げた。背の高い大司教と、さらに背の高いカイン。二人の視線が交差する。


 広間に沈黙が落ちた。壁の紋章が青白く明滅している。聖なる炉の気配が、足元から這い上がってくる。カインの呼吸が浅くなっている。炉の気配がトラウマを刺激し、額に汗が浮かんでいた。それを拳を握ることで堪えている。カインの全身が炉の圧力に抗っている。五百年前のトラウマが——この空間にいるだけで、カインの意識を削っていた。


 レオンハルトは二人の間の空気に圧されていた。これは——自分が入るべき対話ではない。数百年の因縁を持つ二人の間に、自分の言葉は無力だ。


 グレゴリウスが——口を開いた。


「あの聖女のために、また世界を敵に回すのですか」


 グレゴリウスが言った。声は穏やかなままだった。


「数百年前にも——同じことをなさったのでは?」


 カインの全身が——強張った。


 拳が握られ、指の関節が白くなった。顎の筋肉が引き攣る。怒りが——制御の限界に達しようとしている。


 グレゴリウスはそれを見ていた。感情の揺れを正確に読み取っている。


「聖女のために世界を敵に回し——それでも聖女を救えなかった。五百年前と同じ轍を踏むのですか、カイン」


 名前を——呼んだ。「魔王」ではなく。


 カインの目が——揺れた。一瞬だけ。


「……黙れ」


 カインの声は低く、危険な響きを帯びていた。


「お前に何を言われようと、変わらない。リーリエを——返せ」


 グレゴリウスはカインを見つめた。数秒間。灰色の瞳で、五百年の時を生きた男を測るように。


 そして——微笑んだ。


「どうぞ」


「……何?」


「聖女のもとへ、どうぞ。この先の通路を行けば、地下牢があります。お連れください」


 カインの目が細くなった。警戒。罠の匂い。


「何を企んでいる」


「何も。ただ——今は聖女をお返しします。強制的に炉に投入するには、準備が必要です。今日のところは、あなたにお返しするのが合理的です」


 合理的。大司教は全てを合理で語る。感情を排し、計算で世界を動かす男。カインが力で道を切り開く者なら、グレゴリウスは論理で道を塞ぐ者。


 グレゴリウスが道を開けた。身体を横にずらし、通路への道を示す。法衣の裾が床を掃く音だけが広間に響いた。将棋の駒を一つ動かすような、穏やかな所作だった。全てが計算の内にある男の余裕。


「しかし——」


 グレゴリウスの声が、カインの背中に投げかけられた。穏やかな声。けれどその穏やかさの奥に——刃がある。


「この城塞からの脱出は、容易ではありませんよ。そして——脱出の先にも、安息はありません」


 罠ではない——とは言い切れない。けれど大司教が「通す」と言っている。今は——リーリエが最優先だ。一秒でも早く、あの暗い地下室から連れ出す。それだけが今のカインを動かしている。


 カインはグレゴリウスの横を通り過ぎた。


 通り過ぎざまに——グレゴリウスが、もう一度口を開いた。


「カイン」


 カインの足が止まった。背中を向けたまま。


「聖女を連れ出したとして——あなたは彼女に、全てを話せますか。あなたが何者で——何のために、彼女を守っているのか」


 カインは振り返らなかった。


 拳が——震えていた。外套の裾が微かに揺れている。五百年分の秘密の重さが、今、肩にのしかかっている。


 それだけが、カインの内面を物語っていた。


「行くぞ」


 カインがレオンハルトに言った。声は平坦だった。感情を——全て押し殺した声。


 レオンハルトが頷き、カインに続いて通路に入った。レオンハルトは去り際に一度だけグレゴリウスを振り返った。


 大司教は——微笑んでいた。


 穏やかに。全てを見通しているかのように。


 レオンハルトは視線を前に戻した。今は——聖女のもとへ。背筋を伸ばし、剣帯を締め直した。騎士としての所作が、無意識に身体に刻まれている。


 大司教の言葉の意味は——後で考える。今はただ、前に進む。


 広間を抜け、奥の通路に入った。壁の紋章が密になっていく。聖術の灯りが強くなり、空気が重さを増す。通路の天井が低くなり、二人の足音が石壁に反響して倍の人数がいるように聞こえた。炉が近い。その気配が皮膚を通して骨まで沁みてくる。カインの足取りが重くなった。しかし——止まらない。一歩ごとに顎を引き、歯を食いしばり、前に進んだ。


 カインの歩みが速くなった。レオンハルトも遅れずについていく。二人の足音が石の通路に響く。一つは五百年の重みを持つ足音。もう一つは、二十八年の正義を再定義した足音。


 通路の奥に——鉄の扉が見えた。紋章が刻まれ、聖術の封印が幾重にも重ねがけされている。その向こうから——微かな光が漏れていた。白銀の光。


 聖女の紋章の光だった。リーリエが生きている証。まだ光っている。まだ——消えていない。


 カインの胸を、安堵と焦燥が同時に貫いた。生きている。けれどあの光が微かだということは——消耗が進んでいるということだ。


 カインの足が——一瞬、止まった。そして——走り出した。トラウマも、炉の気配も、五百年の重さも——全てを置き去りにして。


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